その四〇六

 

 





 




 














































 

俯瞰する はしゃいでる街 じおらまのよう

 どお台場にある<船の科学館>にあるプールを俯瞰して映した写真をなにげなくみていた。
 たぶん、それはミニチュアなんだろうと思ってみていたら、それは模型でもなんでもなかった。
 プールの水色も煉瓦色をうすめたようなプールサイドも
人も浮き輪もビニールのベンチもおまけにまわりの植栽も、ぜんぶが、にせものっぽくてつくりものだと思っていたのに。
 ぜんぶすべてが実在する場所と人だったことに気づいて、あっというまにやられたって思う。

 本城直季さんの写真集『small planet』にあるジオラマ
めいた世界は、じぶんの立ち位置さえ不確かに思えてくる
魅力に満ちている。

 2004年頃の東京駅も、ミニカーと人の模型とプラモデルの建物が、ほんものと酷似した配置が施されているようにしかみえなくて、あの東京駅と同じなのかとあたまのなかがぐるぐるしてくる。
 遠近感がうしなわれて、この平たくのっぺりとした空間が、なんどか実際に訪れた場所である記憶のほうがあやしくなってくるような、そんな作品群。

 技術的なことはよくわからないけれど、<風景を撮るときなどに使う、アオリと呼ばれる遠くと近くのピントを同時に合わせるための機能を逆に用いて画面の上下をわざとぼかす>という使い方をしているらしい。

 地に足をつけてってよく聞くけれど、こんなふうにいちど価値観のようなものがいったんゼロになる体験もとても
大事だなって思う。
 視点のアングルが、いつもおなじことがあたりまえな毎日を送っていると、ちょっと疲弊してくるなってことを近頃よく思うし。
 こんなひょんな世界に出会うと、がんじがらめな、なにかから解放されて、すがすがしい。


 本城さんいわく「街って嘘っぽいと時々思う」、と。
 そのことばに釣られる。
 時折東京駅の雑踏を歩きながら、すれ違うひととひとの
渦の中に放り込まれた瞬間、きゅっとこころがしめつけられるようなことがあって。
 ここの<ほんとう>のなかにじぶんのいるべき場所は、
ないんだなって感じると、へなへなと帰り道だというのに
逃げ出したくなる感じ。
 実在だとか実績、履歴だとか<ほんとう>にすべてがまみれているせいなのだと。
 でももし街が嘘っぽいって感じたなら、そのせつな人の
こころを平安に導くのかもしれないなと、直感した。

 現実と虚構って聞くと、虚構にからだはんぶん預けたくなる。
 ほんとうってほんとうはなんだろうって問いかけながら、ジオラマのなかのじぶんの住む町の見知った場所を、ちいさな玩具のように俯瞰してみたくなっていた。

       
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