その四二三

 

 






 







 






















































 

どこかって いつもすがたを くらませてゆく

 春なつあきふゆと、云うけれど。きもちのなかではどことなく春がはじまりであることに、たじろぎながら春を迎えているような気がしてならない。

いつもわたしはこの環境になじめるんだろうかと、あたらしくともだちのような間柄になったひとたちと、わらいながらも、こころのどこかすみっこのほうではいつもそんなことを思っていた気がする。

 学校はいかなくていいものなら行きたくなかったし、でも、そこにいけばなにかしらの出来事がいつも起こっていて、幼稚園の時とは、あきらかにちがう厳しさにみちていた。今、思えば、長回しのフィルムのような。

 車窓から知らないマンションのシーツがゆれていて、その姿が、風のまにまにとんでゆきそうなぐらいきもちよさそうにゆれていた。
 ちいさいころは、春の日差しに恵まれた日に洗濯を干してちゃんと乾くことが、けっこう気持ちいいことなんてぜんぜんしらなかったし。
 猫がひだまりで、並んで眠っている姿にも気づくことなく、とぼとぼとあたらしい道を歩いていたのかもしれない。
なんでもないことにいっぱいいっぱいになっているのがこどもなのかな? と思いつつ。
 
 とある春の日に、いつもいく珈琲や食料品が所狭しとならんでいるお店のレジ待ちをしていたら、わたしの目の前にいた人が、<もしかして先に並んでいらっしゃいました
か?>とさわやかな笑顔で尋ねてこられた。
<いいえ、並んでいませんよどうぞお先に>と答えたその
ほんの一瞬、ちいさいけれどこういうコミュニケーション
っていいなって思った。先にレジを済ませたその人は、異国のお酒を何本か抱えながら、後ろを振り向くと軽く会釈してくれて、去って行った。
 こどもだったあの春の頃。たとえばこういう一期一会のような、さりげないあたたかさみたいなものは、知らなかったんだなって思うと、おとなになってからの春も、すてたものじゃないなって、そのつかのまを拾いあげたくなっていた。

       
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