その四二八

 

 













 




























































 

カンカン帽 空の果てまで 飛んでゆけって

 むかし、母と学生時代に友達だった画家の方がこの間、
亡くなられたことを知った。
 わたしも中学くらいの頃、母とふたりで都内の画廊でお目にかかったことがあった。
 視線が印象的な方だった。やさしくするどくて。
そういう視線の方にお目にかかったことは、なかったのでちょっとどぎまぎしながら作品を拝見したことを、ほんとうにきのうのことのように、思い出していた。

<散歩のときは、父のひとさし指を握ってあるきますが、
それはあたりを、よくみるためです。ひとさし指がないと、わたしは道のすみにしゃがんでいますが、きょうはひとさし指があるので、道のまんなかをあるけます。>

 これは詩人の工藤直子さんの詩で、その画家の方がその
詩に絵画で応えた『いとしのパパ象は空を飛んだか』が、
いまここにある。
 とてもすきなこの一冊は、ときおりページをめくりたくなる。
それはそれはとても父性にみちた一冊で、そこに惹かれるているのかもしれない。
 
 きいろとしゅいろとくろとにじみとなみとてんてんと。
 その方の描く絵の中には、いつでもどこかに飛んで行けるような、はばたくまえの姿勢がこめられているようで、
すがすがしい気持ちになる。
 いちどだけでもお目にかかっていてよかったなって思う。
 
 画のなかにも父という生き物としてのなにかどしんとした根っこのようなものが備わっていて、ページをひらくたびに安堵できる。
 わたし自身、幼いころからひたすら父性というものをどこか別の場所に求めながらくらしてきたようなところがあることは、ほんとうに救いがたい病だとは自覚しているけれど。
 それでも、その方が亡くなったことを新聞で知った時は
ちょっと、ぽっかりとしてしまって、すぐに本棚へと手を
伸ばしていた。いないけどいるんだなってこういうことなのかもしれない。いま、じゆうにえんえんとページのなかを踊りながらつらぬく線にみとれてる。
らせんのように、みえないなにかがめぐるような。

       
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