その四三一

 

 





 





 






























































 

夜という とぎれとぎれの りんかく撫でて

 丸く切り取られたガラス窓の向こうの水がたゆたっている。ときおりひかりの屈折を放ちながら。
 あっちの水は、甘いのか苦いのかよくわからないけれど、水がそこでゆれているだけで、涼しさに触れているような気持ちになる。
 寒い季節はお茶碗を洗うのも、ちょっと尻込みしてしまうのに、夏になると、とたんに洗い物が好きになる。
 水に手を浸しているだけで、なんとなくりらっくすできる。水に流すっていうけれど、あれはほんとうかもしれないって思う事がある。
いやなことも面倒な関係などもぜんぶ水のどこかに落ちてゆくイメージは、じぶんの澱のようなものまでもが、洗い流されてゆくようで心地いい。

 寝付けなかった夜、ふと枕元に置いてあったまだ読んでいなかった文庫本のページを開く。
「インド夜想曲」。アントニオ・タブッキの作品を須賀敦子さんが訳していらっしゃって、いつかいつか読もうと、置きっぱなしにしてあった。
<夜、熟睡しない人間は多かれ少なかれ罪を犯している。
彼らは何をするのか。夜を現存させているのだ>という
 もうすでにわたしたち読者の中ではなにかが、はじまっているようで、微かな予感がそこには、満ちていた。
 
 イタリア人の主人公は、インドでいなくなってしまった
友人を探すためにタクシーに乗る。その主人公とタクシーのちょっとあやしい運転手の会話を聞いていると、同じタクシーの窓から、湿度の高そうな熱をはらんだ風がここまで吹いてくるようだった。失踪した友人探しという目的がもともとじぶんのものであったかのように、読者をぐいぐいとひきこんでゆく。
 蒸発した友人を旅しながら探してゆくその行為に身をゆだねて。
 いつもどこかでだれかをほんとうにさがしている人がこの世界にはとてつもなくたくさんいる気がする。真夜中はそういうことを思う仕掛けにあふれているんだなと、ぬるくなった頭で思い描いてみる。

       
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