その四三二

 

 





 





 






























































 

宛先を 書き忘れてる てがみのような

 なにかを包みなおすようなしぐさがずっと続いているそんな意識に取り囲まれているような。
 猛暑のなかで、それでもじぶんが生きる前から、生き抜いてきたひとたちのことを考えたり思ったりしていると、たくさんのことにぶつかってしまって。
 そのたびに、わたしはなにかを包みなおす行為に耽っているような気持ちに駆られる。

 いまの立ち位置からなにかを見る時の、限界のようなものを感じながら、でもそこに寄り添うということは、ほんとうは偽善なのかもしれないと、こころの中がいったりきたりする。

 すこし、時間が経って、「フィオナ・タンまなざしの詩学」という展覧会の切り抜きをみてる。
 去年行きたかったのに行けなかった都写真美術館での作品展。
「浮遊しているのか?」「抱えられているのか?」
 そんなタイトルの動画から始まったらしい個展。
そのことばのつらなりと同時に、モニターらしき写真をみているだけで、なにか遠くのものを想像してみたくなる。
 いまみている世界がほんとうは、となりで見ている誰かと全く同じ世界だとはだれも言い切れないと、突きつけられているような、そんなことを勝手に夢想したくなる。

 フィオナ・タンの作品を目撃した記者の言葉によると、<少し見ていると言葉と映像は一致して
いるようで、ズレている。>と記されていた。
 今歩いている道は帰ろうとしているのか、戻ろうとしているのか、そんな気持ちになるような体験は、
時には必要な気がしてくる。どこかこの道がまちがっているかもしれないと思うこと、それじたいはとてもまわりみちのようでいて、ぜんぜんそんなことはないことってあるのかもしれないなと、網戸にくっついたまま声をふりしぼる蝉の羽のふるえにみとれつつ。 

       
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