その四三三

 

 






 







 
































































 

ちいさくて やわらかな霧 かくしてみても

 夏休みに遊びに来ていた隣の少し年上のお兄さんが手品をみせてくれた。
 眼鏡をかけていつもわたしをちょっとからかうそのお兄さんは、右手を見せて、ほんとうは左手の掌の中でなにかを隠してるみたいな仕種をして、コインはどっちの手にあると思う? って聞いてきた。
 よくみていたはずなのに、たいていわたしは間違えて正解を知ったとたん、狐につままれる。

手品師がよくみせるマジック用語でミスディレクションというらしいけれど。
 なんとなく、近頃はいろいろな場面でこういうミスディレクションのような状態が、ありとあらゆるところで展開しているようで。もうなんどもマジックは学習したって思っていたのに、とてもたいせつな局面で、ちがうアングルに視線が誘導されているようで、霧のなかにいるような気持ちになってしまう。

 鶴見俊輔さんのことばを読みながら、ふとこころの奥になにかひっかかるものを感じていた。
 それはずっと前から知っていたはずだったのに、言葉になった途端に、腑に落ちてきた。そんな体験をした。
<まず心にうつして見る/それがそのまま/
紙の上の字になるとして/書かれたことは/
いくぶんか嘘になる/という法則がある>
<まちがいはどこへ行くか/遠くはるかに/
世界をこえて/とびちっていく/世界はなんと/
ちいさくみえることか>

 鶴見さんの言葉を聞きながら、ちょっと虚をつかれながらも、はじめてほんとうのことを言ってくれる人と出会えたような、すがすがしさも同時に感じていた。

 そう思えば、隣のお兄さんのかわいい手品にいつもだまされていたけれど、わたしもその後の道のりのなかで、いつかだれかにあんなふうに手品ではないけれど、ミスディレクション的なことをしてきたのかもしれない。
なかば霧のような記憶の中でそんなことを思い当たっていた。

       
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