その四三七

 

 

 






 







 



































































 

鳥とよぶ みえないつばさ そらとぶほのお

 みなれていたはずの<電球>がいつもとちがう。
むきだしの真鍮のワイヤーが赤と青、ねじれるようについている。
 それがテーブルランプだと知っても、かなりふかしぎなのに。
 その<電球>にはおまけに、翼が2枚ついている。
 まるでその姿のまま、どこかへと飛んでゆきたそう。

 インゴ・マウラーというドイツ生まれのデザイナーが
1992年につくった「ルチェリーノ」という作品。
「ルチェリーノ」とは、<ルーチェ>(光)とウチェリーノ(ちいさな鳥)というふたつのイタリア語の造語だとか。
 そういう作品の後ろっ側の由来のようなものを知るとさっきまで見ていて世界とはちがう表情がみえてくる。

 とぶこと、ときはなたれること。
 とぶことへのあこがれは、ゆめのなかでもよく語られる
けれど。でも、電球が飛ぶってどういうことだろうって思っていたら、フランスの哲人ガストン・パシュラールというひとが語ったことばが引かれていた。
<炎はそれが空を飛ぶものであるがゆえに、1羽の鳥である>

 しばらくこのことばと翼をたずさえた電球を交互にみながらぽかーんとしてしまった。
 哲学者のことばは、もうそれだけで詩のようで。
ゆきずりに読んでいる人々をいきなりこことはちがうどこかへとつれていってくれるものだとつくづく思う。
 そしてもうひとつそこに文章を寄せている人の考察が面白かった。
<電球の灯りとは、蝋燭やランタンの炎の末裔にほかなら
ない>と。 

 なんて、こまやかでていねいなものの考え方なんだろう。すこし異質なものに触れた時の、物との対峙の仕方に惹かれた。
羽ばたきながら、ちゃんとあるべき場所に着地して。
 みていた世界のもっとむこうをみせてくれるようだった。
 翼が生えてしまった<電球>は、ランタンだったころの
記憶をどこかにしまいこみながら、今頃だれかの部屋の片隅を照らしているのかもしれないと、夢想しつつ。

       
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