その四四〇

 

 

 





 







 



































































 

ふいうちに 誰かの胸で 泣きたくなって

 海をみていた残像がいつまでも残っていて。
 ひかる波が、ぽつりぽつりと頭の中を巡っている。
<ここに地果て、海はじまる>。
ポルトガルのロカ岬。映像でしかしらないけれどユーラシア大陸の最西端に立つ石碑をみたことがある。

 最果てであることと、そこから海がはじまること。
 おわりのはじまりのような。
 なぜでもなく、どうしてでもなく、りゆうもなく。

 この間、こどもが泣きながら道をあるいていた。
 ただただ、ひとりうつむいて歩みはとめずにないていた。
 たちどまらずにあるいているその女の子をみながら、ちゃんと泣くっていうのはこどもであることの証かもしれないなって思った。

 ちいさいころ、けんかして負けて帰ってくるともういちど、勝ってから帰ってきなさいと、家に入れてもらえないことがあった。
 家に入れないことのほうがかなしくて、負かされた相手をみつけるうちに迷子になって、挙句の果て、じぶんの家までわからなくなって、結局泣きながら辿り着いたことなどをばかだったなって思い出す。

 ほとんど涙を流すこともなくなったこの頃ではすこしだけ懐かしくもあるけれど。
 過去のどこかで「寂しさ」や「悲しみ」を飼い馴らす術を憶えてしまったのかもしれない。
 詩人の佐々木幹幹郎さんは言う。
「悲しみ」の感情こそ<一枚の布のようなものだと>
<一枚の布の尖端がほころびはじめて、織り目の細い一本の繊維が風に揺らぐような場所から、言葉が生み出される>と。
 繊維の欠片がどこかでなにかに触れて、生まれるそんな感情を、子供の頃にたっぷり味わっていることもしかしたらそれこそが健全なことなのかもしれない。
 儘ならないこととたくさん対峙することがこころのみえない場所を育てていくのかもしれないなと。
ルカ岬がこんなところに着地するふかしぎ。
 まだ見ぬことばを旅している気分に幸せを感じていた。

       
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