その四四三

 

 

 






 







 








































































 

またたきが 水平線と すれちがうとき

 いま、すこし混乱してる。
 雑踏が混み合うように、頭のなかのちいさな線と線がからみあって、ほぐれなくて、でもこのほぐれなさは、じぶんにとって生まれてはじめての経験なので、この状態をクリアにしたいとは思っていないじぶんもいて。
 
 世の中で誰かが生まれて、生まれたそのひとはずっと生きているわけじゃなくて、いつか時がくれば死んでゆくことはじゅうじゅう承知だったのに、ぜんぜん承知していないことにこの間、このあいだ気づいた。

むかし、15歳ぐらいから22歳くらいまでのわたしを知っている、大きなお兄さんのように親しくしていただいたKさんが、突然なくなったことを知った。
 
「眠るように静かに」だとか「声をかけたら、起き上がり
そうで」とかその人の死を目の当たりにした人々の証言を
みみにしても、それはわたしのものではないし、わたしの
知っているそのひとのことではないような気がしてくる。

「おまえほんとばかだねぇ」だとか「もうちょっと社交っていうものを学ばないと大人になって苦労するぞ」だとか
「ひとにものを頼む時はなんていうの?」だとか。
 その人がわたしを楽しませながら云ってくれたことばの
いろんな断面が、日常をこなしている隙にぽっかりと聞こ
えてくる。

 逢っていた時期は短くて、その後は逢わなくなってしまった時間のほうが長いのに。この想像したことのない喪失感に、今もほんろうされてる。でもその喪失感って、もしかしたらその人への情のあらわれなのかもしれないことに今、気づいたそのこと自体におろおろしているのだ。

そしてどういうわけか、生きていた時よりも死んでからの
Kさんのほうが、いまとてもちかくて、輪郭さえありありとしている。存在感がちぐはぐじゃないかと抗議したい。
<人は一度出会ったら、二度と失わない>っていういつか読んだエッセイで知った文章を重ねてみたせつな、いしいしんじさんの
<自分が今ここに存在していること自体が、おおいなるねじれ>
だっていう言葉を上書きしてみたり。
真夜中、静けさを破るようにどこかで、わぉんわぉんと、
犬が啼いていた。

       
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