その四四六

 

 




 






 















































 

ゆめをみる まぶたの奥で ほとばしる声

 ふと台所に立っていたら、初鴉の声が聞こえた。
元日の朝に聞く初鴉は縁起がいいとこの間知って、すこしわけもなくうれしくなって、母とふたりのお正月を迎えた。

歩いて、遊行寺にゆく。明日と明後日、この坂道を駅伝のランナーたちが走り抜けてゆくことを思い描きながら、歩いていた。
 
 手水のみずがはじめて、ゆびさきに触れても、ぬるく感じるほど、あたたかな元旦の昼下がり。
 そのみずで手をゆすいでいると、ふとその感覚がどんどん広がって、海を夢想する。

<海 それは個人の記憶を超えでて、種としての記憶が甦る場所である>
 という作家の安藤礼二さんのことばを思い出し。
 はじまりの海に思いを馳せてみる。
 胎内の記憶はないはずなのに、みんなどこかで海の記憶を携えながら生きているのかもしれない、と。

 あたりまえのように海はそこにあって。
 それは憧れのようでも、祈りのようでもあって。
 波をみていると、どこか調べのようにも感じてくる。

<モーツアルトは、すべての音が、当たり前のようにそこにあって、いつ演奏しても、すべてのフレーズが、その瞬間に生まれたかのように響く。自分のいるべき場所へと常に連れ戻してくれる存在。>
ピアニストで指揮者の方がおっしゃっていたことを書き留めた去年の手帳の中からみつけた。

 抱負らしい抱負がみつからないと思っていたけれど。
「自分のいるべき場所」ということについて、まっすぐ向き合いたいかなって思いが湧いてきた。
 まだ思いは生まれたままの種のままだし、どこでどうなるのかわからないけれど。じぶんになるべくうそはつかないで過ごしたいなと。
 そんなはじまりのうたたね日記です。

 2016年もどうぞ「うたたね日記」をよろしくお願いいたします。

みなさまのご多幸をお祈り申し上げます。
       
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