その四五一

 

 






 






 



















































 

霞んでる せつなのなかに 身をひそめて

 すこしだけ、だいすきだったひとがこの世の中にいなくなってどれぐらい経つのか、ゆびおり数えてみる。
 49日を過ぎて、もう3か月が過ぎようとしていることに驚きながら、暦の上では春ですと、天気予報を伝える人達の口からなんども同じ言葉を聞く。
 かなしみの真ん中にいた年末ごろは、来年どうしたいかなんて、未来のビジョンがないとかって甘えたことを思っていたはずなのに。かなしみの色が原色から淡いものにかわりつつあることに、気づく。

ふと、3年前の「花椿」のバックナンバーを手にとってみる。堀江敏幸さんの「春の中に春はない」と題されたエッセイに眼がとまる。
 過ぎた春をわすれてしまいがちなその記憶のかけらを、そっとつなぎとめてくれるのは、<芸術であり、言葉でなかったか>と記されていた。
<ぽとりと落ちる赤白の椿たち>、中空を泳ぐ鰆。
<椿と鰆。春を抱える命にはどちらにも硬軟の動きがある>と綴られていたそのすぐあとにつづくのが、<ただし、春の中には春はない>という文章だった。

 <やうやうしろくなりゆくやまぎわすこしあかりて>。そんな清少納言の和歌を引きながら、 遅れたり先んじたりしながら、今見ているものすべてが春そのものではない事実を、そのエッセイはとてもやわらかく春の陽射しのように伝えてくれていた。厳しい視線を放ったその過程を読者であるこちらには、つきつけることなく、語られる春。
 
 春は春そのものではないという、身に覚えがあったはずのその視点があらためて言葉になったことで、輪郭をもちはじめて、日々の春をみているこちらの視覚に作用してくる。
 季節の中に隠れていた春を見つけられる人、愛でる人たちは、いまよりすこし先の季節に思いを馳せながら、たいせつななにかを春のなかにくるんでおきたいこころをたずさえている人なのかもしれない。


 
 

       
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