その四五七

 

 






 







 

























































 

ひしめきの 雑踏のなか ふいにつつまれて

 いまよりひとつまえの季節の頃、車窓から富士山を見ていた。
 朝の光がすこしまぶしい窓のむこうに、雪をかぶった富士山が見えた。
 神奈川に住んでいる人にとって、それがとくべつではないことを、知っているけれどでもその日はなにかがちがうような気がしていた。

 うまくいえないけれど、その時わたしはその富士山をひとりで見ているような気がしなくて。
それも誰かの視線も共に注ぎながら見ている感じがぬぐえなかった。

去年大好きだった人を失って、わたしははじめて初七日や四十九日というものを体感したような気がする。そういう時間はどれほど生きている人達にとって大切なものなのか。今までも誰かの死に出会うことはあったけれど、そこまで感じ得たことはなかったと思う。

 日常は送りつつひとりになると、人が死ぬとはどういうことなのかを知りたくてあらゆる本を、なにか答えを探すかのように読み耽っていた。
 
 東日本大震災で経験した体験談に基づいた<震災学>
についての書評、<「死者を忘れない」ことではなく、
やがて「死者と共に生きること」を目指すようになった>。
という言葉に馴染みたくなる。

 あの日、富士山をみていたときわたしだけの視線ではなくて、それはかつて生きていたKさんの視線も重なり合うようにみていたような気がしてならない。
 人はたとえ死んでしまっても誰かが記憶している限りどこか人のこころのなかに棲みつづけるものなのかもしれないと思いつつ。
 街を足早に歩く誰もが、一度はそういう体験をされていることを想うと、ほんの一瞬ささくれだった気持ちにスラッシュが入って、余白がこころに宿る。
 そうやって死んだ人は生きている私たちにかけがえのないことを教えてくれる。

       
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