その四六二

 

 




 







 




























































 

耳だけが こころひとつに とけてゆくすべ

 わからないけれど、わかったら面白いだろうなってことばに出会うと、すこし気持ちがはしゃぐ。
 むかしはこのわからなさをわからないままにほっぽっていることもへいきだったけれど、今はなぜか、すりすりとことばの近くへすりよりたくなっている。

<音の河の中から、聞くべき音をつかみ出してくることが作曲するということだ>
 これは武満徹さんがかつておっしゃっていた言葉。
新聞の書評欄でみつけて、ついつい書き留めてしまった。
「音の河」っていうところから、なにも把握できないまま
だったので、その言葉のヒントはないかなとどこかに辿り
着くように読み進めてゆく。

<西欧では、音楽を建物のように構築する。無の空間に意味のある構造物をつくることが、創造だが日本では、仏像のように一本の木の中に仏の姿を見い出し、木を削り出していく。まさに塑像と彫像の違いである>
 という評者、細野晴臣さんの見解。
それは、みたこともない箱のなかの鍵穴にぴったりの鍵がみつかったときのように、どきどきする。
 でもその箱をいざあけてみると、またいくつもの謎がひそんでいるのだけれど。
 想像力の限界がすぐきてしまうけれど、でもそこをあきらめないでいると、なにかを掴んだような気がしてくるふしぎ。

 塑像と彫像。耳が捉えたくなる拾いたくなる世界が西欧とはたぶんちがっているのだと教えてくれる。

 そして同時にこれは<音の河>ではなくて、わたしなりに言葉の河をつかんだり、つかみそこねながらいまこの文章を組み立てているような、気持ちに駆られてゆく。
 膨大な音のつらなりのなかでおぼれそうになりながらも、ひそやかに流れる<音の河>に触れることができる。
そんなとくべつな耳をたずさえたひと、武満徹さんのことをもっと知りたくなっていた。
 

       
TOP