その四六八

 

 






 





 































































 

空を縫う 火の雨ざんざ ときどき迷う

 8月16日の夜。五山の送り火の模様をテレビで見ていた。台風の影響で、どしゃぶりを超えて、すべてを穿つような雨が、降り続けていた。
 亡くなられた人がまよわないように、火を焚き続けているその火が、やがて消えてしまうのではないかと思うぐらいのその雨に、ひきずりこまれるように、見入っていた。

 今年は京都で送り火を見届けたかったぐらい、ちょっとそのことを意識していた。
 大切な人の初盆だったので、京都で会ったことも思い出しながらとくにそんな思いに駆られていた。
 旧暦いぜんに、日本には満月を基準にした太古の暦があったらしいことを知った。
<1年は春の最初の満月の日に始まる。秋の初めの7番目の満月は一年の折り返し点になります。
 この春と秋の初めの満月の夜、先祖を祀る祭りがあった>という俳人のエッセイを読みながら、その人もお祭り好きだったのと7が好きだったことを同時に思い出していた。

 送り火を雨で迎えるのは生まれて初めてですと、高齢のご婦人がおっしゃっていて、この雨が、亡くなられたひとりひとりの魂が、降らせているかのようにも思えてきた。
「左大文字・妙・法・舟形・鳥居形」
 山々にたくさんの人の手で、薪に火を点じる様子をこんなふうに、じっくりと見続けたのは初めてかもしれない。
 死者のための祭りに、生きているひとたちがこんなにも思いを馳せることができるのは、たぶん生きている人たちは生きているひとたちだけで成り立っているものではないのかもしれないことに気づかされる。
送り火はさびしい。ふたたびすきなひとを送るのがなんとなくいやだなって思ってた時ふとみみにした番組ゲストの方の言葉。
「彼岸も此岸もそんなに変わりないのよ」。
 さびしさがふっとどこかへ遠のいて、なにかが地続きであるような安堵感があたりを漂っていた。
 


 

       
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