その四七〇

 

 





 







 
































































 

ふたつめの 呼吸を想う 遠くて寒い

 目の前に座っていた人が、はらりと新聞の読みかけを置いてバスを降りていった。なにげなく、立ったままその人が残していった新聞の記事を、俯瞰しながらのぞいていたら、くねくねの赤い線が引いてあった。
 あんまり気になるのでそのラインが引いてあるところを、ちらっとぬすみ見る。

<結果が、自分の思惑通りにならなくてもそこで、過ごした時間は確実に存在する。そして最後に意味を持つのは、結果ではなく過ごしてしまったかけがえのないその時間である>

 経済でも国際でもなくて文芸欄の言葉だった。
 それは、1996年に亡くなられた写真家、星野道夫さんの著書の中のことばらしく。偶然、わたしも星野さんの写真を眺めるのが好きだったので、そんなバスの座席で、こんな形で邂逅できたことに、驚きながらもバスの揺れとともにこころがどこかふわっとなる感じがした。

 家にもどってから、本棚で星野道夫さんの作品を探してみる。「スイッチ」に掲載されていた<二つの時間、二つの自然>と副題されたエッセイと写真をひさしぶり目にする。
 高校生の頃、北海道にあこがれていた星野さんが東京で電車に乗っている時も、北海道にいるクマが、そこで生きていることの不思議を感じたらしく。
 <すべてのものに同じ時間が流れていること>を心に深く刻まれた様子が、綴られていた。
 それが人々にとっての<二つの時間>であり、そこに包まれているのは<自然>であると。
 この文章に触れながら、あのバスの座席の新聞のページ
を重ねてみたりした。アラスカ暮らしの長かった星野道夫
さんの思う時間と、おもわず新聞に赤い線を引いてしまいたくなったおじさんの時間が、この場所で交差して。
すこしばかりふしぎのむこうを垣間見た気がしていた。

       
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