その四七四

 

 





 






 































































 

こわれても はじまりがある それはまやかし?

 ふたりの手の動きが、うそみたいに絡んででもそれはまだひとりのもので。
 でもよくみているとそれはふたりがひとつになっている腕と手首と掌のことで。
 いまみている手が右の人のものなのか左の人のものなのか。そんなことを知ってどうなるんだという気にさせられて。
 ここのところずっとわたしはなににこだわり続けていたのかが、そこで如実にわかって、恥ずかしいのとばかばかしいのとがひとつになって。

 ベルギーのアントワープ出身の振付家、演出家でダンサーのシエルカウイさんという方の舞台を観ていた。演奏家も踊り手も世界中から集まってきていて。彼らがひとつになるまでの葛藤が描かれていた。
 テーマである「フラクタス」という言葉に惹かれた。
 これは、破片という意味もあるそうで。

「骨は折れると強くなる。一度壊したかった。
人生を」「花は開花しきったあと、一度捨てることで、成長できる。捨てるから生まれ変われる。自分を壊し、こわして自分を受け入れる」
 話している内容は、ほんとうに骨の折れるおそろしく困難なことだと思うのにインタビューで彼がやわらかく答えているその姿がとても、印象的だった。
 でも、変化することにおそれのあるわたしにとってはとても痛い言葉だった。だけど、どことなくその時の心情にびっくりするほどかちりとあてはまっていて、舞台が出来上がるまでを見入っていた。

 誰か自分以外のひとたちとものをつくるとき、自分のしようとしていることが、どれだけ相手に理解してもらえるか。それがもし文化の違いという枠をも超えなければいけないときの、大きな壁と葛藤ともやもや。そんな緊張感を伴いながらの舞台稽古。これは踊りの枠を超えた、いまの世界を表現しようとしていることに気づかされる。
 最後にフラメンコダンサーと打楽器の世界が溶け合うとき、ゆずったりうけいれたりがまんしたりその思いのプロセスをわたしたち観るものが共有しているようで。
観終わった後もどこかで、じぶんのなかで、フラクタスの思いが舞っている感じが続いていた。

 

 

       
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