その四七八

 

 






 







 




































































 

いたづらに 時間がよぎる ためらう背中

 体育館の床は、体育館シューズの青い底がこすれる度に、ちいさなウサギみたいな鳴き声をあげる。
 どうでもいいことなのに、ふいに思い出す、ふたり一組のゲームのようなお遊びのようなものがある。
 ひとりのひとは前を向いていて、もうひとりの人は、その背中を支えるために手で受け止めるためにそこにいる。
 前のひとが、静かにからだを後ろに倒すと、後ろのひとはその背中をしっかりと受け止める。

 みえなくてもお互いを信じられるかみたいなことだと思うのだけれど。そんなことをむかし体育の時間にやったような気がする。
 誰かを受け止めるときは、平気なのに。
 受け止められる側になると、とたんに躊躇してしまう。
 はじめて会うひとではなくてもう7年間ぐらいはともに過ごしているクラスメイトであっても、なかなか後ろに倒れることができないことがあった。
 後ろで待っている相方の人は「ひどいよね、わたし信頼されてない?」って笑っていたけれど。そうじゃないよって言いながらも、なかなか、身体で応えることができなかったのだ。

 だれが発明したんだろうって思う、あの仕組み。あの時間がやってくる度に、誰かをわけもなく傷つけているみたいで、ゆううつだった。
 信じられているかを測るというより、その逆のようなものだったのかもしれない。
 新聞を開くと、『折々のことば』の中に「世界がわかってきたような気になるのは、わからないものを切り捨てていくからである」という言葉に出会った。
かつて17歳だった頃のじぶんの背中を、誰かの温かい手のひらがしっかりと受け止めている感触が蘇る。あの日ためらっていたものの輪郭が、その言葉のあわいに、ぼんやりとうかんでいるような気がした。

 

 

 

 

 

 

       
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