その四八一

 

 






 







 






































































 

飛んでゆく 雲を縫う鳥 標をたどる

 なかなか初詣に行けなくて、元日の夕方あたりにふらりと出かける。
 おもいがけず、茜色の夕焼けに目がとまり、まだなにもはじまっていないように見える、今年の道を歩く。

 歩きながらいつもは遊行寺だけでおしまいなのに、坂の途中にある諏訪神社に、先にお参りした。
 すこしうすぐらい遊行寺の坂をくだりながら、つい昨日までが、去年と呼ぶことにまだなれていなくて。どこかでなにかをひきずっているような気分になっている。
 
 むかし宗教人類学者の方が、二十歳の頃にはじめて出雲大社をお参りしたことが綴られている文章を再び読んでみた。
<出雲は山深い場所だと思い込んでいた>のに、そこのすぐ近くに<竜蛇神が寄せくる稲左浜>や<ウミネコがつどう経島>、<絶壁に立つ日御碕が>あることで、<豊かな水に恵まれた土地>であったことを<肌でわかったような気がした>という。

 手水で手や口をきよめながら、ひとびとのはじまりはいつも水なのかもしれないとふと思う。
 生まれてくる時も、たぶんおしまいのときも。
 遊行寺をあとにするとき、なんとなくさっきまでの気持ちがすっとどこかへと、拭われているような。
 たぶん、これは水のつめたさが指にいつまでも残っていることの、すがすがしさなのかもしれないなどと思いつつ。

 そして次の2日の朝を迎えたときに、昨日の初詣の帰りの時の気分とあきらかにちがうものが、その日ながれていることを感じた。
 あぁきのうは元日だったのだと。過ぎてみると、元日の輪郭が浮かび上がってくるふしぎを感じながら。
 元日と2日の似て非なるものに思いを馳せながら、きっとわたしは行く人にも同じ気持ちを抱いていることを、こころのどこかで確信していた。

2017年の<うたたね日記>もどうぞよろしくお願いいたします。
 みなさまにとって今年がこころあたたかな日々でありますように。                もりまりこ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

       
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