その五〇七

 

 






 







 
























































































 

てのひらが つつみこむのは かなたのふたり

 なぜ。なぜっておもうとき。
 どうでもいいものに、たぶんひとはなぜっておもわない。と、おもうけど。
 なぜってしきりに口にして、そういう理由はいいからって、とにかくじぶんの言う通りにしていればまちがいないって言われて、もやもやする。

 なぜとわからないはいつも相性がいいようだけれど。会話の中にそのふたつがはいってくるとたぶん、はなしの糸はもつれあったまま終わってしまうことだけはなぜか知っている。

 庭先に祖母が好きだった泰山木が、季節はずれなのに何度も咲いた。
 ほんとうは梅雨の頃なのに。
 秋になっても、お彼岸をすぎても、10月の台風の前日も。なんどもつぼみをつけて、しばらくすると肉厚の純白の花弁をどうどうと咲かせていた。
 母は狂い咲きしたんだねっていうけれど。
 わたしは返り咲きしたのかもって口の中で言い直して。祖母が返り咲いているようなイメージをもちながら、その白を窓から見る。
 
 なんども咲くって、なんでかなって思う。
 なんども祖母がこの庭に逢いに来ているんだと思うことにして。どこかで見守られているような、気がする。
泰山木は祖母が好きだったからいつのまにか、わたしのなかでは長い年月を経て、それはイコール祖母に擬人化されていた。

なぜ? 咲いたのかな? って一息入れる度に思ったりして。
それで気づいたのだけれど。
きっと、きらいなひとに<なぜ?>って問いかけたりしないんだろうなって、ふいにきづいて惑う、風の午後。

       
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