その五一〇

 

 






 





 



























































































 

やみ闇と ときどきひかる ひかりのなかへ

 11月は大好きな人の三回忌だったというのにいろいろなことが重なって、勝手気ままに多忙になってしまって、ちゃんと向き合えていないような気がしていた。
 あんなに哀しかったのに、今でもかなしいけれど、ある時、じわじわと乗り越えたような気分になったことがあって。いまはなんとかこころしずまず生きている。

<死んでしまった人、もう行かなくなった場所、そういうものを人は思い出さずにはいられない。
そのときに人は何かを語るんだと思います>
 作家の滝口悠生さんが新作『高架線』でのインタビュー記事でおっしゃっていた言葉。
 こういう言葉に出会ったときわたしはいつもひとりのひとのことを思い出していることに、気づく。
 思い出しているときはその人が死んでいるとかいないとかはぜんぜん関係なくて。ただただ、昨日の出来事のように思い出している。

 ある時映画監督のドキュメンタリーを観ていて。
 コペンハーゲンのラース・フォン・トリアーという方の言葉がとても心に残っている。
<映画は靴の中の小石>。
 どういう意味なんだろうと聞いていたら、<私は観ると少しの傷やいたみを与えるような作品を作ろうとしている>と答えていらっしゃった。
 その字幕を眺めながら、なんかすとんと腑に落ちた。観客であるわたしもたぶんそういう映画に出会いたいんだと願っているのかもしれない、と。
 そして、人もそうかなって。
 あたりさわりのないことを言う人よりたぶんきっと。ちゃんとすぱっとなにかを言い得てくれる人のほうが好きなんだと思う。
 11月になくなったあのひとも、わたしにとってはそうだった。たくさんわらったけど、ちょっとだけ傷ついたこともあったかもしれない。
 でもその傷がいま、うっすらなつかしくて、ちょっぴりありがたくて、つかのま、たそがれてしまいたくなる。

       
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