ボーダーの シャツを着ていた いにしえの誰
父親と庭でじゃれている男の子。
ちいさなおもちゃの車に乗りながら、楽しくて仕方ないっ
て感じで、けらけらしている。
写真を撮っているのは母親で。
きみもいっしょにって夫に促されて、その母親はじぶん
は、いいというジェスチャーをしながら、写真に入ろうと
しないその姿がフィルムの中におさめられている。
父も母も若くて。なつかしい日々。
誰の声も聞こえないけれど、その彼らの表情からたぶん
あたたかい、笑い声さえ聞こえてきそうなしあわせな家族
が描かれていると、観客は安堵するのかもしれない。
「サスペクツ・ダイアリー/すり替えられた記憶」ってい
う映画をこの間見た。
シーンとしてはそんな始まりだけど。
さっき冒頭に目にした、ふしぎなグラフィティっぽいこ
どもの落書きみたいな、字の連なりをみたばかりだから、
少し混乱する。
<世の中をどう解釈するか。過去をどう記憶しているかで
変わる。人は感情を正当化するために記憶をすり替える>
感情と記憶のうねりがうずまくような映画だった。
さっき映っていた少年は、やがて成長して人気作家になるのだけれど。
彼の記憶はほんとうにメビウスの輪のようで。
ひとはいかにして、じぶんの記憶にうそをついてるかって
感じでつきつけられて。ちょっと、こわいっていうかいやっていうか。いやなところ、ついてくるなって感じが近いかもしれない。
もうこれは記憶を通めぐるサスペンスだし。こういう現象が映画のなかとはちがう人々の日常、誰にも、起こりうるって思うと、すこし胸がざわざわしてしまう。
物語のおしまい近くで、一度どん底をしった彼がパソコンのキーボードをおもむろにたたき始める。
<どうして僕らは人の記憶は疑うのに、自分の記憶を疑おうとはしないのだろう>
この問いかけは、彼自身のことばなのだけど。
そのまま見ているものへと、つきつけられる。
記憶ってほんとうに得体がしれないものなのに、じぶんの記憶にたよりながら日々すごしているのはなぜなんだろう、
と。 |