その五一九

 

 




 






 































































































 

ゆらゆらと スカーフが舞う 想いは空に

 書きたいことがさっきまでちゃんと輪郭をもってあったはずなのに、もうこうやってパソの前に座ってしまうと、見失ってしまう。
 隣の部屋からここに来るまではほんの何秒なのに、とりあたまのように忘れてしまう。

 春か。春ですね。って体感的にはまだだなって時、まだ寒いままでいいよとかって思ってしまう。
 寒いのあんなにつらいとか言っていたのに、まぁ身体が慣れてしまうと、名残惜しいのか、冬、そのままでいいよって思ってしまうのが常なのだ。

 つまり変化に弱い。
 変化に弱い人はこの世の中を泳いでいけませんよ、変化ハッピーぐらじゃなきゃって窘められたことがあったけど。その性格というか性分は変わっていない。

 もう冬のブーツははけないし。厚手のコートもいらなくなるよりも少し前に。ちゃんと啓蟄がやってきて。
虫や動物たちはプランAを実行し始めるのだ。
 彼らにはプランBもCもなくて。
 はなからプランAでゆく。そのいさぎよさにほれぼれするけれど。ちゃんと生きるために本能を発揮する。
 すごいな。後ろはむいていないのだ。ちゃんと前をむいている。
 わたしの苦手なことを彼らはぜんぶ背負って引き受けて生きているのだ。

 この間、なんど読み返しても惹きつけられてしまう言葉と出会う。
「内面がぼうとミルク色に光る球の内側に居る感覚」
 これがなにか物事に対峙している時のものではなくて、奥様の余命が1年と知った夫である作家の心情だった。いつなにが起こるかわからない、ささいな予定さえ立てられないときの気持ちが綴られている。
 転がってゆくのか、沈んでゆくのか、溶けてゆくのか。
 あらかじめ、失われたものに気づかずに日々を生きてい
るのが、ひとなんだなって思ってみたりする。
 だから、春夏秋冬をちゃんと迎えられることは、ほんと
うは奇跡に近い出来事なのかもしれない。

 

       
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