その五三二

 

 




 







 































































































 

夏の雪 どこまでも降る ゆめのなかまで

 白いってそれだけで余韻だねってだれかが言って。
 聞いた耳が、きままにそうだねって思いながら、余白ってちょっとすきだなって思ったりする。
 
 花火の後のみんなで空をみあげた夜。花火と花火の間の
ちょっとした凪だって、もしかしたら、余韻だし。
 絵の中の空間も、ことばとことばのすきまも、ぜんぶそうかもしれない。
 
 白いシャツ、透き通ったガラスの器のなかのバニラ、、前のページまでぎっしりと字が埋まっていて、なにか続くんだと思ったら次のページはまっしろで。それもあるいみ余韻。
 とても答えにくいけれど、決して、答えたくないわけではないときの、誰かの問いかけのあとのあのスペースも思えば、白い時間なのだ。

 眠る前、スイッチぜんぶを消して待機電力のためのデジタルめいた緑色が暗い部屋に光るあれも、そうだし。
 そうやって考えると白ってとてつもない発見なのかもしれないってぼんやりとした頭で思ってみたりする。
 
 それでと。死んでしまったひとたちは余韻のなかで生きているとしたら? って思いながら。それはちがうのかもしれないって、思い直す。それはたぶん、生きている人の感覚なのだ。すきだった今はこの世界にいない誰かを思うとき、それはさっきまで会話していた躍動感に満ちている。今日の最後の洗い物、コップなんかをきれいに洗っているときそういうえば、あの人はいなかったんだってことに気づいて、すこしたじろぐ。
<やどっていたものが去ってゆく。それはだれのせいでもないように思えた>っていう木皿泉さんの言葉に最近であって折に触れてあたまのなかでそのことばが巡っている。
 ね、だからあなたのいない余白を生きるって、なんだか白い。

       
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