その五三三

 

 






 




 

































































































 

つかのまに 駆け抜けてゆく 声の欠片は

 目覚めると窓を開ける。あたりまえのようだけど、あの窓を開けるという行為のなかには、たいせつな一日がはじまるよっていう、かるい儀式のようなものが含まれている気がする。

 窓。
 それはいつも内側から外へと向かう視線だけれど。
 タクシーやバスで帰る帰り道、灯りのついたマンションの窓をみあげるときがある。そういうときだけは外から内で。
 みんなあのなかに集まって、家族の営みがあることを思うと、ちょっとわけのわからない切なさに囲まれてしまう感じがする。
 それは見た瞬間のほんの一瞬のことだけど。
 灯りの洩れている間接照明のあのやわらかい光を見上げる時、なにかじぶんのなかの時計がくるってしまったような気持ちになってしまう。
 
 4月ぐらいに観たイギリス映画の中でも窓が台詞のなかに登場していた。
<人生に大きな窓が開かれた気がします。そこを通り抜ければ、あなたにふさわしい人間になれるのでは・・・。>そんなふうに綴られて、どれだけ時間が経ってもはじめて逢ったあの日と思いは何も変わらないのだと、しめくくられていた。
 編集者と新進作家の葛藤の日々が描かれていた物語だった。
 とてつもなく自由でありたいがゆえに、まわりを傷つけてしまうその若き作家が命の締め切りに気づいた時に手紙にしたためた言葉。
ひとつ窓を開けてそこをくぐる度に、一歩ずつふたりで育む理想の形にちかづく。一生のうちにそんな関係性を築けるって、生易しくはないはずだけど、互いの傷さえもとてもまぶしかった。
  
あの人は、窓だった。
そんなことに気づくのはずっとあとのあとになってからなんだないっつも。
内側からも開きたくなるし、外からもタイミングよく開いてくれる窓だったのかもしれなかったなって誰かのことを思いつつ。
そんな映画を観たんだよって、ほんのすこしだけ報告したくなっていた。

       
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