その五三五

 

 



 







 


































































































 

空を見た いまわのきわに 虹がでてたね

 夏になって南の方へ帰省すると、いつも祖父が玄関先で
ハグしてくれた。なぜかおじいちゃんはハグするタイプの、ひとだった。
 そのときは、灼けすぎた肌にパイル時のちいさなカットソーがこすれてちょっと痛かったけれど。
 あの時の痛みが少しなつかしかったりする。
 生まれてから10年ぐらいの思い出しかないけれど。
 それでもわたしのなかでは、あれがなかったらけっこう、ぱさぱさの人生だったのではないかとか考えることがあって。

 この間聞いた言葉。
「この言葉があったゆえに私は今日生き抜くことができたという日が訪れる」
 それを聞いた時、わたしはすぐに祖父を思い出したりしていた。ことばじゃなくてハグだったけれど。
 着物の匂いや身体のぶあつさや、ぜんぶを含めて夏の思
い出になっている。

 おじいちゃんといえば、今夢中になっている物語の中に、ウィリアムおじいちゃんがいる。彼は余命いくばくもないのだけれど。
そんな彼に向ってちょっといやな感じの若い女性が、だしぬけに聞く。「死ぬってどう?」と。その時ウィリアムおじいちゃんは、狼狽えることもなくこういう。「人生の美しいピースが自分の周りを待っていて掴もうとする感じだ」と。静かに彼は続ける。「私の膝で眠っている孫娘の寝息を掴みたい、私のジョークで息子が笑うとその笑い声を掴みたい。息子の胸から響く声を。だがどのピースも速くてつかめない。指先から零れ落ちてしまう」聞いた時、身体のどこかに迫ってくる感情が忘れられない。
これは台詞のはずなのに、生身のウィリアムおじいちゃんの声としか思えなくて。感情の置き所にこちらが狼狽えた。
 聞きながらふと、もう40年以上前に亡くなったおじいちゃんの今わまでが甦ってくるようで、喉の奥が苦くなった。ふとながいながい手紙を書きたい気持ちになった。
「あれからね、いろいろあってね」って。

       
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