その五五八

 

 






 





 
















 

ひたひたと さびしい春は 雑踏にまぎれて

とにかく、静かであるってことはむずかしい、ね。
って最近とみにおもう。
そんなに騒音でなくても、道を歩けばなんかいろい
ろと耳に入ってくるし、それを耳の何処かでキャッ
チして、受け止めたあと、ずしずしと音のあしあと
みたいなものがにじりよってくる気がして、気が気
でない。つまり情報処理能力が欠如しているんだと
おもう。むかしっからのことだけど。

だからって、森にまよいこみたいわけじゃないんだ
けれど、ある人が書いていた詩の中で、<イーリー・
サイレンス>ってことばを知った。
おそろしいほどの静寂の意味だそうで、その詩の中
で森に生きている人は、この言葉を耳元で囁かれる
のだけれど、囁いたひとからは<水の匂いがし>た
と、紡がれている。

部屋の中にいても騒がしくてこころがついていけな
さそうな時には、こうやって詩を読んだりする。
すると、さして静かな場所ではなくても、ここが、
居心地のいいところのような気がして、じぶんのさ
さやかなスペースを確保できるような気がする。

なのにサッカー観戦しているときなどは、あの歓声
や怒号や、サポーターからのチャントが聞こえてく
ると、このテンションすきだわって感じでどこから
ともなく元気がでてくるので、ほんとうに根っから
の静か系好みではないかもしれない。そこのところ
は、ほんとうにあやしい。

<呼吸すれば胸の中にて鳴る音あり、凩よりもさび
しきその音>
啄木の歌をふとみていて、この歌にはとても静謐な
ものに触れた気がしてしまう。静けさを破るのは、
身体の内側から来るまぎれもないじぶんじしんのこ
の音だけ。肺を病んでいた、彼の胸から発するもの
が、その静寂を断ち切る音だったとしたら、これは、
あの詩のなかに登場していた<イーリー・サイレン
ス>そのものかもしれないと。
ひたひたとさびしい。と、あらためて気づく、啄木
めいた春の午後です。

 

 

 

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