その五六四

 

 






 







 















 

いなくても いいひとなんて いないんだって

その山の名前は以前あるひとから聞いたことがあった。
その山の名前をひさしぶりに聞いたのは、テレビの中。
小さい時から好きな役者さんがそこを、訪ねていた。
その番組は、その場所に思い出のある人が今は訪ねて
ゆくことができないので、彼がかわりに自転車で訪ね
るというものだった。

ときどきみるとはなしにみる。
そしてその山の名前が綴られた手紙を彼がちょこんと
道路際の縁石に腰掛けてぽつぽつと読み始める。
ふとその山の名前を呟いて、その名前は知ってるって
思った。
ただそれだけだったけど、その山を見ながらあの人を
思い出して、エネルギーの限り喧嘩したことを思い出
して笑いそうになる。

青いとかっていう年齢でもなかったけど。終わりのな
い言い争いを夜中までして、それ以来会ってはいない。
あの日の言い争いはその後のわたしの日々にかなりの
逡巡と後悔をもたらしてしまったけれど、あのざらつ
いていた表面は、いまは摩滅してさらっとしてしまって
いる。時間って、手触りまで変えてしまうものだな、
なんて思ったりしている。

とある夜。
好きとかきらいでもないジェイク・ギレンホールやほの
かに好きなクリス・クーパーが演じていた、
『雨の日は会えない晴れた日は君を想う』を眠れない夜
に観た。すごく変な映画だったけど、その変な空気感は、
いまも鮮明に残っている。
妻を突然の事故で失ったデイヴィス。妻がしんだという
のに、愛したものを失ったという感情が湧いてこない夫。
ある日、娘を失った義父が義理の息子である彼に言葉を
かける。
<何かを直す時は、まず分解しろ。そして見極める。
強さの源を。心の修理は車の修理と同じだ。まず
すみずみまで点検する。そして組み立てなおす>

その言葉に囚われてしまったのか、ある日を境に彼は機械
を解体することに取りつかれてしまう。家の中の冷蔵庫で
は、すまなくて、オフィスのパソコンまで分解してしまう。
そしてもういちどそのクリスクーパー演じる義父の言葉を
観客であるわたしは、反芻してみる。

悩みのさなかにいないひとはだから? って思うかもしれ
ない。でもほんとうにそういうことで。
ややこしくしているのはたいていじぶんで。
ほんとうは単純なことなのかもしれないって。
これ、すごく遠回りのようにかんじるけれど、こういうこ
とが、いちばんの近道なんだと思う。

ふいに思い出した。魔女の宅急便。
<おちこんだりもしたけれど、私はげんきです>
いま、とてもしんぷるなことばのならびがすっと、
夜の風といっしょにむねのうちにふきぬけてゆくのを、
ふいにかんじた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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