その五九一

 

 






 







 

























 

ゆがんでる ゆがんだままで だきしめられて

こんなに時間かかっていていいのかっていうぐらいこの
エッセイに時間をうばわれている。
とにかく、こんな事態になる前に思っていたことがちゃらに
なるのは、おかしいのだけれど。
これで、これ以前のあのことはちゃらか? っていうぐらい
憤っていたことや、やっぱり憤っていたことなどがゆるく
遠くの水平線へと消えていこうとしていた。

でもそういうことはちゃんちゃらおかしいことで。
多少の優先順位は変わることは致し方ないけれど。
きらいなもの、きらいになったものはやっぱり、きらいな
わけで。
許せないことはやっぱり、許せないわけで。

そんな日々の中、ずっと前から気になっていた作家、
大前粟生さんの新作『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』を
読み終えた。
予感はしていた。揺さぶられることの予感だけはしていた。
主人公の七森は、「男の子」であることに身体ごと心ごとで
傷ついていくのだけれど。
女の子に告白することでさえ、相手を傷つけるんじゃないかと
躊躇ってしまうほど七森は、常にどこかで罪悪感に苛まれる、
ほんとうに生まれたてのような「男の子」で。
小説だけれど、決して物語ではなくて。
登場人物の誰かのままフィックスしてはいられない。
いられないと同時に、わたしが置き去りにしてきた封印していた
気持ちが、ほんとうに掌でその輪郭を撫でられるぐらいに、
露になって。露になったまま、その登場人物の誰かの姿を借りて
読んでいる間絶えず誰かになってそこにいるような感じ。
あの頃、封印したことはそれなりに過去の出来事だったと思って
いたけれど。それって大前さんの言葉を借りると、
<ある種の社会との共犯関係>に自分も加担していたことに
気づかされる。ジェンダーっていう括りはあまり好まない。
でも、そうじゃなくて、いつか知らないうちに加害者になって
いるかもしれないことが、如実に小説の中で展開されていて。
被害者もいやだけれど、加害者にもなりたくないって。
ほんとうに、種類は違うけれどまさに今起きている世界的な
この出来事と酷似していて。
すべての根源的なこと。男とか女とかで生まれたことよりも、
人として生まれたんだよねって問いただしたくなるような。
今この時にこの小説に出逢えたことを、こんなふうに何に
対してかわからない涙がでてしまうようなこの頃を、この
小説と共に暮らせた数日間、そんな日々があったこと忘れ
ないでいたいなって。
ありがとう、大前粟生さん。そんな気持ちのこの頃です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

TOP