その五九二

 

 






 






 

























 

あのひとと おもうそばから あのひとぶれて

なんていうか、なんていう日々なのか。あまり俯瞰できないで
いて。起きると、あぁこういう日々に取り囲まれていたことに
鮮やかに気づいて。一日が始まる。

すっごい絶望でもないけれど、かすかな希望もあまり浮かんで
こなくて。ただそれが、じわじわと悲しいとかでもないという
ところまで、気持ちがフラットというか、ちょっと抉れたまま
その痛みにも気づかないぐらいに慣れてしまっているのかもし
れない。

それがこの数か月の世界で起きているせいなのか、ほんとうの
ところ、わからない。それ以前にも、抱えづらいものはあった
わけで。
それなりに、使命感を勝手に抱いて勤しんでいたこともあった
けれど。そこが先月も書いたけれど、ゆらいでいるのだと思う。

ゆらぎは、いつかゆりもどされるのかもしれないし、最近よく
聞く<あたらしい現実>っていうものに、包まれてしまうのか
もしれない。
データ病のようだ。でも、ただ数字を追っているだけで。
それも前日比だけに一憂するような、あいまいな数字の追い方
で。データをほんとうには、読み込んではいないのだと思う。

いまだに紙の新聞から離れられないところがあるけれど。
そこで気になった文章が、手帳の3月7日に書留られていた。
<人物写真を複写機でコピーし、それをまたコピーするという
作業を繰り返していくと、線だけで構成された、くっきりとし
た画像が出来上がる。人物の特徴は出ているが、陰影が消えた
ぶん表情が定型的だ>
書評の言葉だったけれど、ここに綴られていることが、いつま
でも張り付いていて、勝手になにかをコピーした仕草までが、
じぶんのなかの行動のひとつとして記憶されているかのような。
これは書評なので、じぶんにはあてはまらないはずなのに、こ
の文章がなにかを暗示するかのように、数字の裏側に隠された
ひとびとでもあるような、数字を追う日々のわたしのことでも
あるような。そしていつしかじぶんもその数字のなかに埋没し
てしまうかのようなこわさもあって。
こういうこころの均衡を保ちたいときわたしはなにをいつもし
ていたんだっけって、そういう記憶さえ遥か昔のことのように、
ささやかな記憶を辿りたくなっている。

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