その六二二

 

 






 







 














 

わからない ひととしてどう? 問いは聞かない

いろいろと言葉に迷っている。
何を言えばいいかわからなくて。
わたしの生きて来た道にはこの「わからない」が
多すぎるような気がして。
口すぼめてしまいたくなるけど。

わかりたいわけじゃないんだって
想いながら。
それで困ったから2015年の日記をめくってみた。

2015年はわたしにとって、最愛の人を亡くした
歳だから、ちょっとすがるようにページをめくった。

ずっと好きで切り抜いていた折々の言葉の
切り抜きが、一ページ目にはさんであった。

「わからないもの」を受けいれ、自分の中に
未聞の言明や心証をむりやりねじ込んでゆく。
(内田樹)

そんなことばにであった。

筆者の鷲田清一さんによると

「わからないけれどこれは大事というものを掴むこと。
「わかる」の意味はそこにある

と書かれていた。

わかるってことをうさん臭いものと大事そうなものを
直感的に見分けられるようになれば、学校で学んだ
意味はあるんじゃないかと。

わかるって大体がわかった気になってそこで
ピリオドなのだと思いながら、
わかることの意味ってなんだろうって
疑問をいだいていたら。

その年の1月20日の日記のページに
佐藤愛子さんの言葉が記されていた。

当時御年91歳の佐藤さんがこうおっしゃっていた。

「今こそ書く心境にたどりついた。若い時は何でも
意味づけしたくなる。でも納得できなくていい。
人間をわかろうとするその無意味さにこの年に
なって気づいたのです」

最近の自分の身に起こってちょっと悩んでいた
ことの霧が晴れた気がした。





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