その六三四

 

 




 







 








 

いつの日か ふれてもいいよと 言えるその日まで

この間言葉で受けた傷が心で癒される時について
書いてみた。
それからまもなくして新聞の時評で興味深い言葉に
出会った。

「傷口」に「ふれる」と「さわる」について書かれ
ていた著書への評語だった。

その論壇委員によると傷口にはさわってほしくない
けれどそれが<「触れる」となると、相手への痛み
への配慮が含まれている>と、おっしゃる。

さわるは、それこそもう一度痛みがぶり返す感じが
するし。

触れるは、なるほど相手が少しでもいやだと思うこと
に気を配っている感じもする。

傷の分量はおなじだったとしても、そこに対峙する
まなざしが、<ふれる>はやわらかくてやさしい感じ
がする。

その論壇委員の方は、こうつづられる。

<「ふれる」と言った時には、どこか、内側へと向か
う信頼や、双方へ共振するいたわりへの予感がよびだ
され、力が蓄えられる>

そしてこの言葉は五輪やコロナ対策へと向かう。

<社会を分断せずつなぐものでありたい>と。

著者の気づきもすごいけれど、その著者の言葉を
うけて受け止める包容力にちょっとほれぼれして
いた。

言葉のキャッチボールというけれど、受け止めた
言葉をまたやわらかな弧を描くように近くへそして
遠くへ放つことができるそんなことを気づかせて
もらった気がする





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