その六四二

 

 




 






 







 

わたしには 猫が足りない きづいた部屋で

Sお隣のお庭から金木犀の香りが運ばれてきた。
わたしはうまく書けない言葉に苛立ちながらも
夜を迎えた。

言葉とかもういらないって思いながらもまた
言葉を探しに行こうとしていた。

夜になると、ずっと録画してあった、ネコメンタリー
という番組を見た。
物書く人のかたわらにはいつも猫がいた。
そんな副題だった。

作家の方が共に暮らしている猫ちゃんを紹介する番組だ。
作家と猫は、ふたつでひとつみたいなものだからと、
書籍ではよく読んでいたけれど。

動く映像ははじめてだった。
猫のドキュメンタリーなので
ネコメンタリーと名づけられていた。

そして毎回、猫ちゃんとの出会いや猫をモチーフにした
物語のようなエッセイのような作品までもが番組の中で
楽しめる。

吉田修一さんが登場されていた。吉田修一さんの作品を
読んでいるとじぶんの視点がすごく空の上にあって鳥が
飛んで空から下を観ているような鳥瞰している風景の
描き方が心地よくて好きだ。

心地いい日々なんてほんとうはそんなにないはずなのに、
主人公たちは、少しでも日常をアレンジして、やるせない
日々をクリアしてゆこうとする。

吉田修一さんの視線がいつも遠い場所に放たれて
いるように思えるのに、いつもリアルな足元も
照らしてくれるところに興味を抱いていたので、
どんな猫ちゃん達と暮しているのかとても知りたかった。
金太郎君と銀太郎君という猫たちと暮していた。

ベンガルの金太郎君とスコティッシュフォールドの
銀太郎君。
そして銀太郎君は銀座から、金太郎君は錦糸町から
やってきたらしい。

吉田さんがふらっと散歩に出かける。

あれを見るのが好きなんですよって
彼がつぶやく。カメラが、指さすあれの辺りを映すのだ
けれど。あれがさっぱりわからないでいると。
あの木っておっしゃって。
目の前には池があって、大きな木が風に
そよいでいた。
あれを見るのが好きなんですよって
つぶやく。
そして自分にとっての金太郎君と
銀太郎君ってなんだろうっていう話の
時に、もういちどその木をみて、何かを
思いついたかのように、ほらあれといっしょ
ですねって笑う
猫ちゃん達はその木に似てるらしい。
あれにね、(木のことらしい)お帰りとか
言ってほしいわけでも励ましてほしいわけ
でもなく、期待しない。
期待しない。
うんうんって思いながらわたしは
その映像に続く、書下ろしエッセイの言葉を
ローソンのレシートの裏にあわてて
書き留めた。

7年になるのに全くわからない。
ちゃんと幸せなのか。
わかったふりをするのはやめておこうと思う。
お互いわかりあえなくて一生を共にする
なんてわかりあえるよりかっこいい。

そして、フローリングの床を縦横無尽に
走り回り、ソファの上で寝ころんだ彼の
胸の上で足もみする銀太郎君の切ない
ような幸せそうなウルウルした瞳を
みながら、かつて共に暮らした黒猫の
クロンを想い出し、あぁわたしにはずっと
猫がたりなかったのだと気づいた。

 



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