その六五七

 

 





 






 






 

蜘蛛の巣を つむいでゆくよ きみは世界だね

言葉が出てこない。
言葉が出てこないという言葉はでてくる。

みんな言葉をもっている。
わたしだけじゃなくて、ほかの人も
言葉をつかって生きている。

SNSの中には言葉が行き交い、その
渦の中に瞬間、瞬間、巻き込まれそうな
じぶんをちゃんと掬わないと
自堕落なわたしは、溺れそうになる。

言葉が自分の中にみつからないって
探そうとしている時、必ずすることは
昔の日記帳をみることだったりする。

ほとんどわたしの日記帳は他人の言葉で
できている。

どのページもじぶんの思いは書き記さない。
そうじゃないと、もったいない。
他人の言葉を聞きたいのだ。

2017年の手帳から、はらはらと落ちてきた
紙切れに今欲しい言葉がそこにあるような
気がした。

その年の4月頃のものだった。

<私がイメージしたのは蜘蛛(くも)と糸と巣の関係です。
蜘蛛が自分の糸だけで編んだ巣の上で生きるように、
我々も普段は意識しないけど、自らの内なる言葉(糸)が
作り出した世界像(巣)の上で生きているんじゃないか。
つまり、人間は言葉の介在無しに世界そのものを直(じか)
に生きることはできないんじゃないか、と>。

穂村弘さん「内なる言葉の塊」より。

ひとりひとりは内なる言葉を持っている。
だから内なる言葉が言葉にならない時に
わたしは不安になったりもやもやするの
かもしれない。

なにも書けないときに、わたしの目の前に
現れてくれた穂村弘さんの言葉に救われた。

読書は誰かが、原風景や心象や出来事や現象を
言葉に置き換えて世界をみせてくれている。

わたしとは違うあなたがみた世界をみたい。
違うということや時折同じということを
その言葉から感じ取りたいがために読んで
いるのだと、今気づく。

言葉のない世界に生きたいと思うことも
あるけれど。
そんな時でもまた言葉を手繰り寄せている
だろう。

言葉が書けないと嘆いていたら、言の葉の
葉っぱのように今日は穂村弘さんの言葉が
舞い降りてきてくれた、そんな幸せな夜に
なった。

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