その六七〇

 

 





 







 






 

いつの日か 味になって 私のものになる

さっき、ふいに目にした小説の
数行の描写にはっとした。

田舎から越して来た女の子が、
じぶんのことをあまり好きになれ
なくて。

足元にあったかばんを立たせる
シーンがある。

自立しないカバンというやつだ。

わたしは今でも自立しないカバン
という言葉を聞いただけで、ちょっと
どきっとすることがある。

自立という、生活そのものの言葉を
ファッションの一部である鞄の立ち姿に
たとえるところが、なぜだか痛い。

自分でも心ともども自立している感じが
どこかしないのかもしれない。

そこに鞄がひとつあるだけでなにかを
物語ってる感じがするときがある。

まだ誰のものでもないデパート売り場に
あるさらっぴんの鞄は、違うけれど。

確実に誰かのものである鞄には、ずっと
見ていたいようなそんな魅力を感じる。

地下鉄に乗っていて向かい側に座る
見ず知らずの人の持っていた鞄は
革がいい感じでくたびれていて
無数の傷もしぜんな味となっている
ような持ち主の見えない時間を表現
しているすてきなものだった。

震災があった時、それひとつだけもって
逃げればいい鞄を作っておこうと思って
やってみたけど。

わたしにとって大切なものや失いたくない
ものが多すぎて、そのボストンバッグには
入りきらかなった。

そして、あきらめてしまった。

あの時は祖母が亡くなったばかりだったので
祖母の遺影だけを鞄に入れた。

年月を蓄えて愛でられてきた誰かの物達は、
じぶんの知らない時間ばかりで構成されて
いるのだということもあたりまえだけど
同時に憶えた。

TOP