その六七一

 

 




 







 






 

まなざしの 宛先のこと ゆらしてうつつ

誰かの書いた文章を好きになるときって
どこが好きなんだろうって考えていた。

まだ見たことのない映画の評を書いていらっ
しゃった横田創さんの
「天使、まだ手探りしている」というタイトルの
映画評を読んだ時ひとめぼれした。

横田創さんの『幸せになるためのイタリア講座』の
書評。

「壺からでたばかりの焼き立てのパンをトレー
ごと落としてさらにあわててその上から生卵を雨と
降らせてしまったアルバイトの女性を慰める言葉なんて、
わたしには思いつかない。」

そんな冒頭を読んだ時これはわたしの物語かと思う
ぐらい、彼女に似ていた。

失敗するひとにひいき目の視線を送りたい。
そして彼女はその場所から逃げてしまうのだけど
こういうとき、親しい者に声をかけられることは
逆効果だ。

大丈夫じゃない時に大丈夫? と聞かれることの
いたたまれなさは何度も経験しているから。

横田創さんのその眼差しが好きだと思う。

そんな時は、なにもしないことが正解なのだ。

彼女は心が焦りの汗まみれになってしまっている
だろうから。
立ちすくんでいる人になんて言葉をかけたらいいのか
迷っていた。

仕事ですこし大きな失敗をしたらしい。
さっきまでなにかを書こうと想っていたけど。
ちょっと待ってみる。

そのことを見透かされたみたいに。
予言されたみたいに書かなくてよかったと安堵
していた。

たった一言こんな文章に会うとわたしはずっと
読み続けていたいと思う。

観たことのない映画をみたような気がする。
映画評だけなのに、もう見てしまったような。

そしてほんとうに見定めたいと思う。
そういうものが評なんだろうなって。
いや、評が読みたいわけじゃない。

評であれ、小説であれ詩であれわたしは
たぶん横田創さんの言葉を感じたいのだと
思う。

そしてそうやって誰かの文章を好きになるとき。
文章もまなざしなのかもしれないと思ったりする。

なにかを描写している、そこに注がれている
眼差しを好きになる。

今日のいちにちの終わり近くにわたしは
わたしじしんが好きな人の文章に
とても救われていた。

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