その十





 







 






 

すきな音楽はふいにどこからか理由もなく
訪れてくれるとうれしい。
ラジオから聞こえるそれもわるくはないのだけど
最近はわたしの部屋の小窓からそっと滑り込んでくる
ピアノの調べがとても気に入っている。
昼下がりになるといのちの限り泣き続ける蝉の泣き声にまじって
縫うように音はわたしの部屋に届いてくれる。

そこに指をやさしくおくだけで奏でられる楽器、ピアノ。
たとえばあたらしいピアノではなくて
誰かのゆびのあとが鍵盤に刻印されるようにうっすらと
ついていたらすてきだなぁと思う。
いつだったか、カルロス・ジョビンの指のあとが残る
ピアノの写真にいつまでもみとれてしまったことがあった。
<誰かの指のあと>がそこにあるだけで想像の虹をかけて
思いをめぐらしてみたくなる。
どんなにやさしく白い鍵盤に指をおいても
強く叩くようにしてみせてもそこから放たれた音は
たちまち風まかせにはかなく消えてしまう。
一抹のせつなさも残しながら。

そしてなにも奏でられなくなったときわたしは
部屋に取り残された黒いピアノを想像する。
音を奏でる鍵盤も黒いふたでとじてしまえばもうどこからも
なにも聞こえなくなってしまう。
こちらがどんなにのぞんでも祈ってもだ。
だからわたしはじぶんのからだのどこかにたたみこまれた
音をひとつずつ探すようにして、記憶のなかの調べでなんとか
おさまりをつけるのだ。
ふたの閉じられたピアノは少しのあいだ死んだふりをする。
そしていつか白い鍵盤に触れてくれるそのたいせつな指を
焦がれるように、眠るようにして
しずかにたたずみながら待っているのだと思う。

       
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