その十二






 







 









 

いつだったかポストの郵便受けを手でさぐると
手紙のかわりにひかひかでしわしわになったなにか小さな物が
指先に触れた。
おそろしいものを感知してしまったからだのいちぶに戸惑いながら
わたしはその乾いたものを取り出した。
素手はやっぱりこわいのでお寿司屋さんが置いていった割り箸で
それをつまんで古新聞紙の上に乗せてみた。

・・・しんだとかげだった。
はじめてわたしの目の前にいるしんだとかげ。
それはちょっと想像を絶するほどにモノクロ−ムで。
なぜだかわたしはそれをぱちっと写してあげたくなった。
それもカラーではなく白黒写真にしてみたいと
おそろしさを越えてそう思ってしまったことがあった。
でもそれはわたしのできのわるい演出で。
そんなことする必要もないことにあとで気づいたのだ。
とかげは生きている時もモノクロームだと思う。
ちゃんと生きているのに、彩りをひたすら拒否しているかのように。
こんなふうにひりひりと断定したくなる生き物であったことを
死んでしまってからお知らせしてくれるなんて
相当ずるいなぁと思うのだけど。

わたしはやっぱり色のない写真が好きで、人物だったらなおさらだ。
色がついているとそれなりに側にいる感じがする分 求める力も弱い。
でもモノクロだと、みんなしんでしまったひとみたいでせつなくなる。
今、ページを開いているそこには
けむくじゃらのちびの犬がいっぴきおとこのひとの右の肩の上に座っている
写真がある。
だいすきなこの一葉のなかには彼はちゃんといるのに、
この世のなかにほんとうはもう存在しえない人のように思えてきてしまう。
一瞬だとか束の間だとかそんなことばの意味を手繰りたくなる瞬間。
だれよりも果てしなく遠いと思うこのせっぱつまったような感情がうっかり
ふつふつと沸き起こってしまうのは、このモノクロームの仕組みのせいだろうか。 だから云わんこっちゃない。やっぱり油断できないのだこういう写真は。

なんて思いながらもう彼の肩にのっかってる犬はいつかどこかで
死んでしまっただろう。 そんな他愛もないことを雨の部屋のなかで思っていたら
『私は愛していいか憎んでいいか分らなかった』というむかしの詩人の
一節をふと思い出してやっぱりその一葉がたまらなく
愛しくなって仕方がなかった。

       
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