その十九







 







 








 

たとえば問いかけられたとします。
かなしみは、きっと誰にも説明がついて際限なく、
そのシーンをすりきれるほど思い出せるのに。
でも、対極にあるわらいは、どうしてじぶんが
そんなにおかしかったのかなんて、いちばんむづかしくて
ちんぷな質問のような気がする。

深刻な話し合いをしていても、その闇をやぶるような
瞬間を確保できるのは、わらい。
まるであくしでんとのようにやってくるもので、
それは誰にも止められなかったりする。
わらいはほんとうはのほほんとしたものでなく
時には危険なのだ。武器なのだ。
何故って、その話し合いのあんぐるをひょいと変えてしまうかも
しれない要素をいっぱいはらんでいる訳だから。

ちいさいときの頃の笑ってる顔が思い出せるひとを
わたしは信じてしまうところがあって。
おとなになってもきっとこの人はこんなふうな顔で
ちいさい頃から笑ってきたんだろうなぁと思うだけで
わたしは安堵してしまう癖がぬけない。
そしてたいせつな人にはいつまでもそやって笑って生きていて
ほしいと思うことで、ぐんと思いがそこにのり付けされる。

先週たくさん笑わせてくれた『ルミネ the よしもと』!
おなじ場所ででとなりの人とわらえあえることが
とてもしあわせだということを発見した。
そして、わらっているそのあいだだけは、じぶんのなかの
ちっぽけでも濃い悩みさえわすれられるその瞬間を知った。
わらわされているとき、わたしはわらっているその時間そのものを
信じていることにも気づかされた。
うそでは笑えないのだ。
ふりすることもできないのだ。
それだけ敵は、てごわいものだと。

なんとなく、文脈は違うけれど松本太洋のマンガの
ハやへやキャでわらう登場人物を思い出している今、
思い出し笑いに気をつけなければとこころしている
今日この頃です。

       
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