その四八





 






 













 

たずねたい ことばばかりが 浮かんできえて

長い長い映画を見ていた。
ベランダには一匹の犬が海を見ていて
老人の主人公はカーテンのそよぐ部屋で
今までかけていたレコードの針を途中で下ろす。

そんな始まりだったと思う。
なんかとても好みの世界だなとわたしは感じて
その映画の中の時間にとことんつきあいたくなった。

そこにはせつない少年とさっきの老人と犬が、
静かに歩いたり佇んだり走ったりして
物語りがおしまいへと進んでいくものだった。

少年と出会ったのはとある廃虚のような場所。
人生最後の日にしようと思っている老人の前に
彼は現われて、ほとんどぎりぎりの時間まで
共に過ごすことになる。

離れようとしながらも次第に離れられなくなる
ふたりの距離は、時間が経つにつれて
どんどん抱き合うほどに縮まってゆく。

人と人がそれが異性でなく
年齢の差とかでもなく
きっちりと相手のからだを受け止めるまで
抱きしめられるまでにはどんな、きっかけや想いが
必要なんだろう。

わたしはとくにヨーロッパあたりの映画を
みるたびにいつもそんな筋とは関係のないことに
思いを馳せてしまう。

そして祖父と孫ほど離れたふたりの想いは
ひとりのもののように縮まりながら
彼らはラストシーンでどうしようもなく愉し気に
バスに乗る。

残された時間の短さを知っているふたりだったから
なおさらだった。

映画の中に出てくるバスは大好きなシーンのひとつだ。
少し前にみた映画もラストシーンにバスが登場していた。
飛び立つかのようなスピード感と共に雑踏のネオンが
混じり合うような色彩感が印象的だった。
それも偶然だったけれどたしか男ふたりの話だったことを
思いだした。

老人と少年の乗り込んだバスの窓は雨でくもっている。
そのスモークがかったガラス窓からみる風景は
老人の次の世界を描いているようで、哀しいぐらいにきれいだった。

わたしはそのとき雨の音がどこかで重なって聞こえることに気づいた。
ちらっと出窓の窓をみるとそこも雨でくもっていた。
おなじように雨が降るブラウン管のむこうの街とわたしの住む街が
つかのまひとつになったようで、不思議な気持におそわれていた。

そんな自然のなりゆきにいたずらされたせいで
おしまいの主題歌が寂しく流れてきても
映画の時間の外になかなか出られなかった。

だれかにこんなにいい映画だったんだよ。と、説明するのは
むずかしい映画ばかりをなぜだか好きになる。

だからなかなか好きな映画を共有できないのだけれど
それは人でもまったく同じことなのかもしれないなぁと
なんかもどかしい気分でわたしはいっぱいになっていた。

       
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