その五十九




 







 






















 

遠い日に 迷子になった おとこといぬと

夕闇で辺りの空の色が、
にじんだりまざりあったりする頃。
ある2月のはじめわたしは、
歩いて5分ぐらいの薬局へと向かっていた。

ガーデナーを育てる学校の花壇を通り抜ける。
パンジーの濃い色の輪郭もはっきりとわからなく
なっているそんな時間。

マンションが立ち並び、民家の前の
犬小屋には、いつも喉をくーんくーんと
震わせながら啼く、土まみれになっている
毛色の犬が鎖につながれている。

少し先にある国道の標識を見上げると
そこはもうわたしの
棲んでいる街ではなくて
隣街なのだ。

街と街の境に足を踏み入れる時、
ほんのすこしだけ、あぁいまの瞬間って
なんとなく気持にスラッシュが入ったような
感じがする・・・と思ってしまう。

その薬局のネオンは、いつもそこだけオレンジ色に
明るく点っている。
扉を開けて入っていって、他のお客さんを
見かけたことがないぐらいいつも空いている。
どんなに風邪が流行ろうともそこはいつもと
変わらない風景なのだ。

わたしがその一見変哲もないお店がとても好きで
ささやかな理由をみつけて通ってしまうのは
そこの匂いと店にかかっている曲のせいかもしれない。

カウンターの後ろの棚には
数えきれないぐらいの薬のパッケージが並んでいる。
あたたかな柑橘系の匂いに包まれている空間には、
いつも静かにジャズがかかっているのだ。

なんてすべてがふさわしくないんだろうと思うのに
その店主のおじさんが訊ねてくるこちらの症状への
細やかな問いと穏やかに低いその声を聞いていると
どれもが、ぴったりと完成された場所にも
思えてくるから不思議だ。

この間、薬ではなくて頼まれていた万歩計を買いに
わざわざでかけてみた。
いつものようにお客さんはわたしひとりで
ふわりと甘い匂いが漂っていて
おじさんのまわりには、何故か、レフト・アローンが
かかっていたのだ。

好きな曲をこんな思いがけないシチュエーションで
聴けるなんて思ってもみなかったので
いつまでもその音はわたしの耳に残ったままだった。

正直、その店で買う薬は、すばらしく効き目があった
試しはない。
いつも今度こそはと期待してみるのに
時間薬と変わらないぐらい
ゆるやかにしか治ってくれないので
速効性は皆無に等しくて、ほんとにいやになってしまうのに。
なんとなく足が向いてしまう。

その日もわたしはそんな隣街に数分だけ滞在していた。
たった数分なのにさらに夜の空の色は
重たく塗り込められていた。
じぶんの街へと帰る道の途中ずっとわたしの頭の中には
異空間に訪れていた余韻を引きずりながら
レフト・アローンの続きのメロディーが
しゅんしゅんと響きっぱなしだった。

       
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