その六五








 






 













 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

夜色の ゆるいこころが じゃまなんです

たとえばテーブルの上の
ランチョンマットやシュガーポットも
マグカップに斜に突き出たちいさなスプーンも
きのうとおなじものなのに
とつぜん、よそよそしく感じてしまう
瞬間がある。

じぶんのからだから遠くにあるものとしてしか
認知できなくて、そういう波がじぶんのからだに
訪れたらもうその距離の遠さのままに
ほうっておくしかない。

この間わたしは機会があって
十数年ぶりに視力検査をした。

とりたてて視力に変化は
なさそうだったのだけれど
眼鏡をあたらしく作りたいという人に
ついていって
検査をつきあいで受ける事になったのだ。

その眼鏡屋さんはみんな眼鏡をかけていて
とても意欲的に働いていた。

顎をくぼんだ黒い楕円の器具にのっけて
調べてもらうとわたしは
微妙に乱視がかっていることがわかった。

乱視っていうのはつまり簡単に云ってしまうと
ゆがんでものがみえてるんですよと云われて、
視力にはすこしだけじしんが
あっただけに軽い衝撃があった。

ゆがんでものを、みだれみていたのかと
ひとりで納得していた。
そして簡単に云われたことばにこそ
人はすこし傷ついたりするものなのだなということも
同時に感じていた。

中学生の時に新幹線に乗って母に連れられて会いに行った
画家のおとこの人の目はとてもきれいだった。

近くにいるわたしを見ているのに
その視線が遠くの景色を見渡しているかのように
透明な目をしていた。

その後すこし何人かの絵を描く人と知り合ったけれど
みんなおなじような瞳をもっていた。

描く前にみているときはもうブツなんだよ。
だから気にしないで。

ある人にそう云われてわたしは緊張が解き放たれて
途端に楽になったことを
思いだした。

そうか、わたしはもともとブツなのかと思い至った
あのなんともいえない風が吹き抜けた感じ・・・。

それは意味なんてはじめからないよと教えてもらった時の
安堵感にもとても似ている。

すべての親しい人や物に遠く果てしない距離を
感じているとき
きっとわたしは誰かにこころをふくめてみてほしいと
だらしなく願っているときなのだ。

こころなんてなければどんなにすばらしいだろうと
ふいにそんな思いがはみだしてゆく。

乱視とこころ。

そのどちらもただありのままにそこに在るのだから
まっすぐありのままに
受け入れるしかないのだと
パソコンのとなりにある
オペラ色の目薬をみながらわたしは思っていた。

       
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