その六六








 






 














 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

レモン水 青い吐息で 飲み干してゆく  

外の空気を吸って家に帰ってくると
家の中なのにまだわたしは外にいるみたいで
落ち着かない。

ミュールをはいて外に出かけていって
玄関でさっき脱いだはずなのに
居間やじぶんの部屋に
そのまま土足でつかつかと入っている感じが
してしまうのだ。

からだのいちばん外側、空気と触れあう
さいしょの場所みたいなところがあるとして
そこの部分がまだ、雑踏やデパートのフロアで
感じていた雰囲気を纏ったままで
なかなか家のモードへと切り替わらない。

いつもよりその感じが酷いのは
さっき会った女の人のことばのせいかもしれない。

今日の夕刻わたしは知らない洋服屋の女店員さんに
二、三日前にあなたを見たような気がすると
云われた。

確信をもってその人は云うから
わたしはほんとうにその人と出会っていたのかも
しれないと思うほど、錯覚を感じた。

たとえば、思いの分量がじぶんの中に
抱えきれなくなって、
意識がもうマックスになると人は
いったいどうなってしまうのだろう。

見えない針が振りきる寸前というような。

その洋服屋さんに行きたかったわけじゃないけれど
わたしらしき人を見かけたというその日
わたしはもしかしたら密かにからだ以外のぶぶんだけが
誰かに会いにいっていたのかもしれない。

いま冗談はんぶんに思うのは
多分、じぶんの中の潜在意識みたいなものが
縁取りできるぐらいにはなんとなく形をもって、
目的地を目指しながら
その道の途中にある洋服屋さんまでは
辿り着いていたのかもしれない、と。

じゆうに意識が飛ばせてその人の棲む夜空の下に
降り立つことができたら
どんなにいいだろうと思う事がある。

それもわたしであることは知られずに
そっとその人を見届けてしずかに
夜の空を帰ってゆく。
そんな力が備わっていたら、わたしは
夜を今以上に待ち焦がれるようになるかもしれない。

遠くにいる人のいのちがそこに確かにあることが
不思議でならないと思う刹那。

不思議だなという思いが、愛おしさを滲ませて
からだに染み入ってゆくと
わたしはすべてが途端にわからなくなる。

まじめに真剣にわからなくなって
深呼吸の仕方さえあやふやなになるぐらい
息がくるしくなってくる。

なにもかもがわからないという思いはなんて
欠落感に満ちた贅沢な問いであり
答えなんだろうとつくづく思う。

       
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