その六八









 






 















 

みずうみが 霧になる日に とけてゆく声 

夜おそくに目が覚めて
がばりと起きて
カーテンをめくると
霧がでていた。

向いの家の屋根や電線が
すこし遠くにみえる
隣町の緑色の六角屋根もぜんぜん
視界のなかにみつからない。

降りすぎた雨がどうしようもなくなって
しらない時間にこっそり
霧になっていたんだと思うと
すこしだけ昂揚した。

いつか信州を旅行していたときに朝霧を
みたときは、とても不安に駆られた。
ひとりひとりの顔や体のりんかくが
消え入りそうで、なんだかその場所に
ひとり残された気がしたのだ。

白樺の木立がつらなっていた高原が
あたりを白くぜんぶを隠してしまう。
とつぜんわたしを呼ぶ声だけが聞こえてきて
一瞬の心許なさが洗い流されて
あぁそこにちゃんとみんな存在しているんだと
安堵したことを思いだした。

今は霧に出会ったぐらいでは
ふあんになったりしない。
それよりも、もっとちがうベクトルに襲われた。
家並みを、空のさかいめを、電柱を
しらない人の住むガレージを
マンションを、アスファルトを包み込む夜霧に
ちょっとだけそそのかされそうになっていた。

その時、とても気になっているCDを
夜中から衝動的に聞きたくなってしまったのだ。

78年に死んでしまったジャズサックス奏者の
奏でる「アカシアの雨がやむとき」。

ただ耳に刻まれるだけなのに
わたしにとって、あの音の連鎖は
霧の中にいるときの気持に近い。

暴力的でときどきひょんな感じに甘くて、
でもそれは長続きしなくて。
走り抜けてゆくのを音だけで確認するしか
術はないのに、ただそれを聞いているだけで
じぶんの中の靄っている場所までもが
暴走しそうな感じがする。

窓のむこうの夜霧の中をあてもなく
散歩したくなっていた微熱のわたしは
結局彼のサックスにもありつけないまま
いつのまにかふしぜんなかたちで眠ってしまっていた。

       
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