その七四







 







 






















 

とめどなく わらったあとに ぽっかりしてる

いま、とつぜん開きたくなったページには
<いつかみつけられるものたち>という
タイトルのついた写真が載っている。

6角形のガラスの器。
たぶんひまわりかなんかの種を
縦に入れてしまえばいっぱいになりそうな
そんな感じの高さ。
そしてすいかの種をいっぱいならべたら
10個ぐらいで満杯になりそうな
そんな奥行き。

白い紙の上にささやかな器が8個並べられている。

器の中央はラズベリーのゼリーみたいな
楕円型に輝くものが納められていたり
ウスバカゲロウの羽根に似た、かなしいぐらいに
透き通った、ちぎれた3片だったり
深緑の二等辺三角形を逆さにした練香のようなものだとか
とにかく得体の知れないものばかりが
8個ガラスの器の中に存在している。

この写真から得られる情報は、風通しがよすぎるぐらい
すかすかとして少ないのに、なんとなくほっとする。

こんなに得体が知れないにもかかわらず。

そしてなによりも<いつかみつけられるものたち>っていう
タイトルがとても好きだなぁと思った。

よのなかにはみつけることのできる
人や物、感情よりも、みつけることのできない
人や物、感情のほうが断然多いのだから
決してそのことを忘れてはならないという話を
まっすぐに話しているおとこの人の声をビデオで聞いて、
そう感じる人の思いって
おこがましくもきれいでいいなと感じた
ばっかりだったので
<いつかみつけられるものたち>という
ことばにつよく反応してしまった。

わけのわからない誰もが美しいとも
おもわないかもしれない物質を
ガラスケースの中にいれて
個々の存在の輪郭があらわになるように
写真家はぱちっと写す。

彼の眼がすでにもうみつけてしまった物たちなのに
<いつかみつけられるものたち>と
名付けてしまうその思いにこころを奪われた。

はじめに人の思いがきれいだなと思った思いが
じぶんの中で発酵するようにふくらんで
つぎの思いに連鎖してゆく。

生まれてから死ぬまでこの思いの連鎖は
わたしがなにかを塵ほどでも感じる限り
つづいてゆくのだと思うと
あまりにとりとめなさすぎてちょっと
気が遠くなりそうだったのに。

たとえ憶えてられないほどのひとつひとつであっても
どこからか連なるそのとりとめのなさに
勇気づけられることも 確かにあることを、
実感していた。

       
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