その七八






 







 

























  さびてゆく ひげの先から きのうの匂い   

ずいぶんと遅れている電車を
鄙びた駅でまっているとき
目の前の線路を一台の貨物列車が
通り過ぎた。

がたがたと音を立てて
通り過ぎてゆくのを
見守るのにじゅうぶんなぐらいながい
色とりどりの貨物列車だった。

コンテナ、コンテナ、空白 コンテナ
という感じで彩りが連なっていて
おわりがないんじゃないかというぐらい
陽の暮れてしまった闇の中を
列車は走り抜けていった。

ちょうどその時、「高村智恵子の紙絵展」を
見てきた帰りだったので、ひとつの色紙が
となりあう違う色の紙に繊細に触れながら
重ねられた作品を鑑賞していた映像が
あたまのどこかに残っていたのかもしれない。
そのせいか青色や黄色の貨物をみた途端に
じぶんの中の軸みたいなぶぶんが
揺さぶられている感じがした。

人を運ぶのではなくって必要な誰かのもとへと
運ばれてゆく荷物たちが、きっと暗い
コンテナの中で犇めいたりしながら
夜の線路をものも云わずに駈けてゆく様子は
ちょっと正しすぎて寂しいような
なんかどうしようって気持に駆られてしまった。

智恵子は色紙をちぎって重ねあわせた紙絵で
花々や景色をかたちづくったものを病床で幾つも作って、
だいじに紙包みの中にしまっておいた。

訪れてくれるたったひとりの光太郎にみてもらうために。

そのエピソードはむかしなにかで読んだ事が
あったけれど、作品を目の当たりにするのは
はじめてだったので、
まっすぐな想いと大胆な色づかいがにじんだ作品に
出会って、単純にうつくしいなぁと感じた。

のちに光太郎は、その頃のことを回想しながら
智恵子はひとつの紙づつみを渡すとじぶんに
「見ろという風情で」手渡したと記している。

「見ろという風情」という箇所でちょっとぐっと
来てしまった。

ある種ぶっきらぼうな表現であることが
なおさら光太郎へ全体重を預けている感じがして
そのけなげさにまいってしまったのだ。

そして光太郎は
「此を私に見せる時の智恵子のはずかしそうな
うれしそうな顔が忘れられない」とも綴っている。

なんかもういけしゃあしゃあで余裕を感じる
ひとことだと思ったけど、智恵子が気持を
隠しきれなかったことを思うと
ふたりのこの瞬間はここですべてが
完結しているいい眺めだなぁと強く感じた。

海へとつづく夜の線路の上を貨物列車が
生き物のように走ってゆく。

あの寡黙さが今日はなぜかたまらないなぁと思いながら、
冷たいベンチに座ったまま
わたしもつられるようにむくちになっていた。
       
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