その七九





 







 



























  びしょびしょの 誰かを待って 満ちてゆく海

濡れたセーターを手に持ったままわたしは
ベランダに出た。

雲も風もひとつもない、薄く青い空が
広がっている、天気のいい日だった。

そのとき、わたしはそのちいさな空間で
たしかな感じで視線を感じたのだ。

それも遠くはなくとても近い場所で。

ベランダの白い手すりを見ると
きれいな草色をしたかまきりが
こっちを見ていた。

昆虫とか虫とかが苦手なわたしは
一匹の虫の視線に射られてしまって
たじろいだ。

ちょっと手とか肘とかそこらへんの
皮膚をぎゅっとつねって、息をこらえた。

じっと見ていると微妙に動かしている後ろの節くれだった足がゆっくりと動いて、
上体を仕切り直しながら今度はちゃんとわたしを見るという態勢になった。

目が合ってしまって
あぁと思った瞬間ふいにわたしは
こころの中でおじいちゃんと呼んでいた。

昆虫なのにもうその目は人のようで
おまえをみてるよっていうそんな
視線だったのだ。

祖父の命日が幾日が過ぎた日だったからなおさらそんなことを感じてしまったのかもしれない。

しんぱいばっかりかけてすみません。

そんな気持でわたしはかまきりを
こわがらないようにして
遠くからそっと見守っていた。

わたしの気配を感じているのか
少しだけ近寄るとちゃんと顔をゆっくりと
こっちに向けてくれた。

見守っているつもりが
結局見守られていたのはわたしだった。

じっくりとかまきりの佇む姿に見入ったことはなかったけれど
なにもしていないように見えて
その足は地面をふんばっているようにも見えた。

あぁあの姿はやっぱりおじいちゃんかもしれないと思ったら、ふとせつなくなったのだ。

さいきんのわたしのことをおじいちゃんは
好きだろうか嫌いだろうか。

そんな思いが浮かんで、席を離れて
戻ってきたらもうおじいちゃんはいなかった。

白いベランダと草色のかまきり。

居ることと居ないことのボーダーラインは
どこにあるんだろう。

なんかこんなふうに思いだしているわたしのどこかにあの日のおじいちゃんみたいな
かまきりは確かにいるんだと、そんなことをもうずいぶん会っていないおじいちゃんに 云いたくなっていたのかもしれない。
       
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