その一四〇

 

 





 







 








 

触れただけ 思い出すだけ にじむってなに 

サックスをしずかに置くとこんばんはと低い声。
戦災でこれだけが焼け残ってて袖のあたりとか
焦げちゃってるんだけど
おじいちゃんのモーニングきょうは着てきました。
天才だったひとだったんでちょっとあやかろうと
思って。
そういいながらスーツの襟あたりに撫でるように
しながら喋る。
指のうごきの面白い人だなと思った。

夕べのライブの印象的な夜のシーン。

サックスやバンドネオン、パーカッションの
すべての音がまざりあって耳に届いてくるけれど
耳じゃなくっていたいところついてくるなぁって
感じる時のいたいところに直接響いてくる
音色が今も残ってる。

つねづね彼の音は夜の音楽だとおもっていたけれど
おさないころからずっと不眠症のようで
朝が来ると朝が来たことが信じられなくて
いまはほんとうのいまなのかと
いぶかしげに感じるこどもだったのだと
mcで語っていて、とても頷けた。

よくクラシックコンサートのはじまる前のシーンの
それぞれの楽器のパーツをそれぞれの弾手が
チューニングをあわせている時のあの
不協和音みたいな音のつらなり。

あれを聞いているとたちまち不安に
おそわれるけれど、人と人の営みって
まさにああいう整合性のなさでもって
なりたっているのかもしれないと
そんなことを菊池成孔のライブにいって想像していた。

いまもカヒミ・カリィとのボーカル
「Crazy He Calls Me」を聞きながら
からだの中にふりつもっている音を
ひとつひとつ探るようにこの原稿を書いているけれど
うまくとりだせてなくて、もどかしい。

ちかくにいる人はわかるとおもうんですけど
このおじいちゃんのスーツかびくさいんですよ。
かびくさいっていいねって
ひとりごとのように云っていて。

かびくさいということばがなんとなくわたしのなかにも
すきなもののひとつとしてむかしっからあったみたいで
いちいちぴんときてとつぜんゆさぶられた。

アンコールでコロンをしゅっしゅっと
からだのまわりにふきつけながら喋る。
ことばもコロンの薫りもたちまち消えてゆきそうで
その消えてゆきそうなものはやがて消えてしまうけれど
たとえばかびくさいっていう染み付いた匂いが
そのかつて消えてしまったものの証みたいなものの
輪郭なのかもしれないなぁとぼんやりと思っていた。

そしてわたしも大好きだったおじいちゃんの着物の
うちっ側の匂いを思い出しながら
三半規管がくるうぐらいあっちこっちが酔ってしまう
そんなデカダンなよるよるよるって感じの夜でした。

       
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