その一六一

 

 







 







 







 

壜のなか 季節はずれの 音符およいで

砂丘を歩く女の人の足下がスクリーンに映って。
砂に足をとられているその女の人を客席から
観ている時、あぁあのひとはとってもひとりなんだな
ってことが伝わってきて、私はなんとなくほっとした。

この間、下北沢で映画「こほろぎ嬢」を観た。
尾崎翠の短編「歩行」と「地下室アントンの一夜」と
「こほろぎ嬢」が映像化されたものだった。
その時こころに受けた衝撃をここになにかを綴ろうと
すると指先があやふやになってしまうぐらいむずかしくて、
じぶんがじぶんのゆびがそしてじぶんであるということが
もどかしくってたまらなくなる。

スクリーンの中は言葉や視線が行き交うのに誰とも交わらない。
映画の中の登場人物たち少女や詩人はみんなが
だれかに片恋していて。そしてだれもが孤独で。
このだれもが孤独でってところに私はたちまち
やられてしまった。

孤独と恋はもともとひとつづきのものだからと
じゅうじゅうわかっていたはずなのだけど。
でもそういうアングルのものではなかったのだ。
片思いという恋は、りんかくをはじめからもたなかった
人に焦がれているみたいな感じだから、
かれらのそれはけっしてつがいになることはない。
でもあの映画に描かれていたのは、つがいになれない
孤独とかでは決してなくて、もともとひとりだったじゃない
あなたもわたしもってことをそっと耳もとで囁かれた時の
ふいをつかれた感じに似ていたのだ。
誰もが抱えている身体の中に潜んでいる「孤独」という物質を
とりだしてほらねとビーカーの中に浮かばせて、へららと笑って
みせてくれるみたいなしぐさでもって観客席のわたしを刺激した。

ひとりのひとがだれかをすきになって
だれかをすきになっているひとをじっとみていたら
みているひとまでもがこんどはそのひとがすきになって
なんか、 すきって思いのしっぽがどんどんと人から人へと
りえぞんしてゆくような恋の現場がスクリーンに濃密に描かれてゆく。

濃密なのにでも重くなくて、全編を通しておかしみにあふれている。
そこに厳密に描かれている孤独を感じ取った途端
なにが起こったかっていうとたちまち孤独がどこか
足下へとふりつもってゆくのではなくて
頭からすとんとぬけていって解き放たれた感じに
包まれてしまった。
あの映画の中に通奏低音のように流れていたのは
風通しのいい孤独だった。

映画館を出て少し冷たい風に吹かれながら知らない街を
にぎやかな方へと歩いている時ふと思った。
なんだかむだに悲しがったり寂しがったり
切ながったりしていたらふふふって
「こほろぎ嬢」に笑われてしまうなぁなんて思いながら。

       
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