その二八六

 

 






 






 













 























 

音うらら ゆめのなかで はぐされている

庭先に蟻がふえたなって思う。
ことしは去年よりもずっと多いような気がして。
気候のせいなんだろうけれど。
そのままくろくてちいさいいきものを
そのままにして、テラコッタの鉢のゆりや
ばらにみずをやる。

喉が渇いていたみたいにごくごくと
土が水をくろぐろとすいこんでゆく。
夕方のみずやりは、いちにちのピリオドの
ひとつ手前みたいな感じで、ここちいい。

遠くの森あたりで聞こえるうぐいすの声と風の音。
緑の葉のにおいと。なもしれぬ成長の早い
優美な雑草が、手をのばしてぬくことも
なげやりになってしまうほど、オーストリアンセージと
あじさいのあいだに、くゆりとからまって。
そしていつもどこからかただよってくる魚を焼いている
香ばしい夕餉の香り。

部屋に入るととつぜん人工的な音がほしくなって
何年か前によくかけていたセルジオ・メンデスの
マシュ・ケ・ナダを聞く。

曲がはじまったとたんに、耳がなつかしがってる
みたいに、ぼんやりとした輪郭の映像と
会話らしきものををつれてくる。
おもいだしたい記憶でもないものまでいっしょに。

いやというほどいやでもないけれど、ロフトに
しまってあるアルバムの中の写真のいちまいと
かわらないぐらいの記憶が、マシュ・ケ・ナダの
はねてころげる音のあわいにもぐりこんでくる。

曲のどこかうしろっかわにぺったりと誰かの
記憶がはりついているって、ちょっとばかり
あつくるしいななんて思いながら。

出来うるなら、ほんとうにはじめて聞く曲のように
まっさらな曲だけをきいていたいのにって、
もやもやした想いがあたりにちらばる。

ひとりの思いの中でいたずらに消費されてゆく曲。
でもしばらく聞いているとふしぎなことに
その誰かはしだいに消えている。
記憶がうすれるプロセスをみているみたいに
うっすらとした気配だけをそこに許しながら。

       
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