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そ
ば
に
い
る
と
り
ん
か
く
せ
ん
が
み
つ
か
ら
な
い
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離れると あなたのかたち 思い出せるのに
三度目の国立新美術館。
エントランスの木の廊下を歩いてるときから、
この建物はあたらしいけどなつかしい感じがして
すきだなって、訪れる度に思う。
周波数がどことなくあってる感じ。
前回、ルーシー・リー展に行った時に
買ってあったオルセー美術館展をみにゆく。
列のおしりがどこなのかわからないぐらい
らせんのような行列。
やっとエスカレーターをのぼって、うすぐらい
展示室へ。
美術館のフロアを歩いている。
目がだんだん会場の明るさにチューニングを
あわせてる感じで、気持ちがのってくるまで
すこしだけ時間がかかる。
ポスト印象派と名付けられている展覧会だけに
なじみのある絵にいくつも出会う。
でも見た瞬間、わたしが知っていたのは
ぼんやりとした輪郭だけだったのかもしれないって
気づかされる瞬間がやってくる。
今回わたしにとってのそれはスーラだった。
点描をこんなに間近にみたことはなかったかもしれない。
<グランド・ジャット島の日曜日の午後>を見る。
描かれているのは、セーヌ川の行楽地グランド・ジャット島
で、思い思いの姿でくつろいでいる人たち。
でもそれは他愛のない日曜日の午後なんかではぜんぜんなくて。
パラソルの下にいるふくらんだ長いスカートをはいた
女の人と葉巻をふかす男の人のカップルも
スキップする少女も、寝そべっている男女のうしろにいる
草をはむ犬も点描のなかでみんな静止している。
色彩もあざやかなのに、りんかくが途切れ途切れで
動く事やキャラクターをみせないことを課せられて、
そこにはいのちが瞬間フリーズしてしまったかのような、
印象。
絵の前に立ちながらわたしは、みんなまぼろしだなって
感じながらもその場を立ち去りがたく、しばらくしてから
そこをあとにして、すこし離れて見たとき。
とつぜん、まぼろしだったひとや犬が現実のように
りんかくをかちっかっちっとつないだ。
ぼんやりしていたからだの線や少女やおじさん達が
ちゃんとそこにいる。
ひかりがひかりとてをつないでいるのが、みえたとき
いないのにいることに安心して、ちゃんとその絵から
離れることができた。
偶然ではない計算されたひかりの配置。
なのに、その絵のなかには偶然みたとしかいえないような
感覚がたくさん隠されている気がする。
あとで、彼のことについて書かれた本を読んでいたら
孤独がすきで秘密主義的だったと記されていた。
もっともっと知りたくなって来た。
あのひかりの点と点のなかには、理論を越えたような
なにか彼しかしることができない、ひそやかななにかが
ひたひたと隠されているような気がして。
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