その二八八

 

 







 







 















 























 

離れると あなたのかたち 思い出せるのに

三度目の国立新美術館。
エントランスの木の廊下を歩いてるときから、
この建物はあたらしいけどなつかしい感じがして
すきだなって、訪れる度に思う。
周波数がどことなくあってる感じ。

前回、ルーシー・リー展に行った時に
買ってあったオルセー美術館展をみにゆく。

列のおしりがどこなのかわからないぐらい
らせんのような行列。
やっとエスカレーターをのぼって、うすぐらい
展示室へ。

美術館のフロアを歩いている。
目がだんだん会場の明るさにチューニングを
あわせてる感じで、気持ちがのってくるまで
すこしだけ時間がかかる。

ポスト印象派と名付けられている展覧会だけに
なじみのある絵にいくつも出会う。
でも見た瞬間、わたしが知っていたのは
ぼんやりとした輪郭だけだったのかもしれないって
気づかされる瞬間がやってくる。

今回わたしにとってのそれはスーラだった。
点描をこんなに間近にみたことはなかったかもしれない。
<グランド・ジャット島の日曜日の午後>を見る。

描かれているのは、セーヌ川の行楽地グランド・ジャット島
で、思い思いの姿でくつろいでいる人たち。
でもそれは他愛のない日曜日の午後なんかではぜんぜんなくて。

パラソルの下にいるふくらんだ長いスカートをはいた
女の人と葉巻をふかす男の人のカップルも
スキップする少女も、寝そべっている男女のうしろにいる
草をはむ犬も点描のなかでみんな静止している。

色彩もあざやかなのに、りんかくが途切れ途切れで
動く事やキャラクターをみせないことを課せられて、
そこにはいのちが瞬間フリーズしてしまったかのような、
印象。

絵の前に立ちながらわたしは、みんなまぼろしだなって
感じながらもその場を立ち去りがたく、しばらくしてから
そこをあとにして、すこし離れて見たとき。

とつぜん、まぼろしだったひとや犬が現実のように
りんかくをかちっかっちっとつないだ。
ぼんやりしていたからだの線や少女やおじさん達が
ちゃんとそこにいる。
ひかりがひかりとてをつないでいるのが、みえたとき
いないのにいることに安心して、ちゃんとその絵から
離れることができた。

偶然ではない計算されたひかりの配置。
なのに、その絵のなかには偶然みたとしかいえないような
感覚がたくさん隠されている気がする。

あとで、彼のことについて書かれた本を読んでいたら
孤独がすきで秘密主義的だったと記されていた。
もっともっと知りたくなって来た。

あのひかりの点と点のなかには、理論を越えたような
なにか彼しかしることができない、ひそやかななにかが
ひたひたと隠されているような気がして。

       
TOP